2007/08/02

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

原作は読んでいない。映画は全作観ているが、アズカバンの囚人はゲイリー・オールドマンが余り好みじゃなく、炎のゴブレットはダンブルドアがリチャード・ハリスじゃないことに抵抗があったりして、シリーズの進行につれて気持が乗らなくなっていた。そんな気分とこれまでの行きがかり上観たのだが、案に相違して楽しめた。

マルグのいじめとハリーの逆襲という定型のプロローグが嫌いなのだ。毎回楽しめないのだが、今回は違った。体裁は同じでもマルグを馬鹿にしきったようなお笑いは一切なしでマルグとハリーがいきなりの恐怖にさらされる。いつもとは違うハードな始まり方だ。

ハリーの反則がきっかけとなり、ホグワーツ魔法学校の改革に着手する魔法省。送り込まれた新任教師が押し進める教育改革という名の粛正に、ダンブルドアさえなす術もない。ダークな物語だが、すっかり大人びたハリーには却って収まりがいい陰鬱さでもある。教育再生会議と教育三法の現政権にもシンクロしたアップ トゥ デートな展開ともいえる。

ダンブルドアが良く見えるのである。ゲイリー・オールドマンさえ今回は好ましい。自分としては、今までどうにも抵抗があったこの二人がかっこ良くさえ見えるのである。これはなぜか。改革を断行する女性教師ドローレスを演ずるイメルダ・スタウントンのキャラ造形が素晴らしいからである。一見かわいい外見に潜む頑迷蒙昧陰険強引の憎たらしいこと。大好きなアラン・リックマンも影が薄い。ボルデモートよりこっちの方が恐いってぐらいのもんである。やはりね、女はすべからく魔女である。魔女なのである。教訓。

強まる悪の力。成長する子ども達。派手な魔法戦に悲劇性を増して行く物語。テムズの川面をビックベンの鼻先かすめてぶっ飛んでいくハリー達。ユー キャン フライの時代とは違う21世紀のピーターパン。今回クィディッチ戦がなかったのもよかった。

原題:Harry Potter and the Order of the Phenix
監督:デビッド・イェーツ
脚本:マイケル・ゴールデンバーグ
製作:デビッド・ヘイマン
原作:J・K・ローリング
撮影:スワボミール・イジャック
音楽:ニコラス・フーパー
美術:スチュアート・クレイグ
2007年アメリカ映画/2時間18分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2007/08/01

レミーのおいしいレストラン

とにかく、口に入るものなら何でもいい、というねずみ一族の中にあって、素材の鮮度と食い合わせにこだわる異端児レミーはやがて調理に目覚め、ついに花の都でレストランの調理人として頂点に立つ。

最強のブランド力を誇るピクサー社の新作。期待に違わず面白い。田舎から花の都に流れ着く前半部はユーモアもスペクタクルも、巧みなストーリーの流れを効果的に盛り上げて素晴らしい。しかし、パリのレストランに住み着いてからの展開は説得力不足で爽快感に欠ける。

レミー一匹だけならまだしも、他のネズミたち、一族郎党ことごとくを人間の食文化に隷属させ、そこに生活改善したネズミ達の幸せも描き込んでいるのがどうにも気色悪い。ネズミのアイデンティティーを無視したネズミのあり方を一方的に押しつけてもネズミは納得しないと思うが、映画だからみんな納得しちゃってるのだ。しかしなぁ、文化的侵略行為をこんなに明るく楽しく肯定的に描いちゃっていいのか。ベトナムから湾岸戦争を経た、これがアメリカなのか?

ここに描かれた人間とネズミの関係は、今も絶えない異文化衝突のメタファーとしても成り立つもんだから、いまどき、よくこの脚本でよく映画にできたなとびっくりなのである。ネズミはネズミであり何のメタファーでもないと言うかも知れんが、だったら尚更ネズミに人間のまねごとなどさせない方がいいのだ。このゴーマンさに後半は全然楽しくならないのだ。


原題:Ratatouille
監督・脚本:ブラッド・バード
製作総指揮:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン
音楽:マイケル・ジアッキノ
出演:パットン・オズワルト、ルー・ロマーノ、イアン・ホルム、ジャニーン・ガロファロ、ブラッド・ギャレット、ピーター・オトゥール、ピーター・ソーン、ブライアン・デネヒー
2007年アメリカ映画/1時間50分
配給:ディズニー
編集

ロバート・アルトマンのロング・グッドバイ

7月22日(日)朝日朝刊の読書欄、ロバート・アルトマンの評伝を取り上げた慶大巽孝之教授の書評を読んでいて、休みの朝のユルい気分が一気に覚醒させられた。

「M★A★S★H」の成功、「ポパイ」の挫折。成功も失敗も、到底ハリウッドメジャーの枠には納まリきらない独自性と個性の故。いつしか孤高の大監督として地歩を築き、昨年亡くなるまで最前線を走り続けたロバート・アルトマン。チャンドラーのロング・グッドバイを映画化したのは長いキャリアのごく初期にあたる73年だった。

夜中にキャットフード買いに行くエリオット・グールド!、という型破りなマーロー像が意外にもカルト的な支持を集めたこの作品は、しかしチャンドラー的な感傷やマーロー的なヒーロー像に対してのシニカルな視線に貫かれている点において、実に非チャンドラー的とも反チャンドラー的とも言える作品だ。

エリオット・グールドの起用からしてだが、ハリウッドが生んだ屈指のハードボイルドヒーローを笑い飛ばそうとするアルトマンのへそ曲がり振りも顕著だ。アルトマンにとって、ハリウッド的ヒーロー像などはとても容認できる代物ではないということは、例えばロング・グッドバイに先立つ2年前の BIRD★SHIT(70)に描かれた、カーチェイスに失敗して池に飛び込み、全身ずぶ濡れで途方に暮れるタートルネックの刑事、というあからさまなブリットのパロディーにも見て取れる。

しかし、テリー・レノックスの描き方において、アルトマンの「悪意」はより一層明らかだ。飲んだくれで純粋で誠実なヤクザなテリーとそんな男を放っておけないマーロー。友情と裏切りを描いて原作とは正反対の結末を突きつけるアルトマン。この作品の核心をなすそのインパクトに啞然とさせられたが、これはチャンドラーの50年代な自己陶酔の気持悪さを、70年代のリアルで見事にばっさり切り捨てやがったと、これはこれで有りだなと公開当時妙に納得したものだった。

今では、松田優作の探偵物語の下敷きになった作品として評価されている面もあるが、何よりチャンドラーの代表作をもって従来のハードボイルドヒーロー象を徹底的に虚仮にしているところがこの作品の実にハードボイルド的な特徴で、ロバート・アルトマンはいかにも隅におけない癖の強い監督なのである。ロング・グッドバイとはそうした屈折した面白さにあふれた、自分にとってはアンチハードボイルドなハードボイルドとも言いたい作品なのだ。

アルトマンはどうしてテリー・レノックスとマーローをあんな風に描いたのか。テリーを撃ち殺したマーローがピョンと跳ねて両足の踵を打ち鳴らす。原作の気分からはあり得ないエンディングだろう。これはどうしてなんだ、とあれこれ考え、きっと、チャンドラーのセンチな描き方、マーローの自意識過剰が嫌だったのであろう、などと、アルトマンの心中を斟酌したりした遠い過去をもつ頭に、巽教授の紹介文がガッツーンと強烈にヒットした。

>たとえば、ハードボイルドの巨匠レイモンド・チャンドラーの名
作を映像化したロング・グッドバイ』(1973年)で強調される「落
ちた偶像」の背後には、グレアム・グリーン原作、オーソン・ウェ
ルズ出演の『第三の男』が介在していたこと。 
07年7月22日 日曜日 朝日新聞朝刊 13面 より引用。

えッ、そッ そーなのか。 
「第三の男」って、そういえばジョセフ・コットンの作家とオーソン・ウェルズのハリー・ライムって、マーローとテリー・レノックスの関係に完全にかぶるじゃないか。アルトマンが言う第三の男との関係が映画だけのことか原作についてのことかが、新聞の記事だけでは分からないので何とも言えないが、アルトマンが第三の男を意識したことは良くわかった。あのエンディングの謎が、大きく一つ腑に落ちる。そこで気になるのはチャンドラーと第三の男の関係だ。

で調べたってほどのこともないがインターネットは便利だ。

 ロング・グッドバイ出版1953年
 映画「第三の男」 公開1949年
 小説「第三の男」 出版1950年

チャンドラーがグリーンに影響された可能性は凄く高い。
間違いない。

2007/07/24

NINAGAWA十二夜

蜷川演出で菊之助がシェイクスピアを歌舞伎化した舞台の再演。
歌舞伎は先月のコクーン歌舞伎が初体験。歌舞伎座はこれが初体験。いうなれば基本を飛ばして応用ばかリに走ったような落ち着かなさもあるが、いろはの勉強は今後の課題ということにする。

普通の劇場のステージをビスタビジョンとするなら、歌舞伎座はシネマスコープ。この横幅の広さから花道という縦空間の必然も生まれたように見える。

舞台全面に鏡を貼り巡らしたセットに度肝を抜かれ、満開のグラマラスな桜の巨木から海上の嵐に翻弄される船と菊之助の早変わりの一大スペクタクルへと畳み掛ける見せ場の鮮やかさにすっかり乗せられ、ひき込まれ、全身委ねて終演までいってしまった。

訳あって男に成り澄ましたうら若き乙女に恋したやんごとなき姫君の恋のもつれを描いたコメディー。歌舞伎でということは、女形が男装の麗人を演ずるという、これは、文化的芸術的洗練の極みと言いたい相当高級な設定。この倒錯、錯綜振りは考えるほどにこちらの頭もクラクラしてくる。
そんなことはともかく、女形と女形の男装の麗人と男を演じ分け、菊之助はあくまで可憐で美しい。時蔵の姫君も姫君としか言いようがない。このお姫様系に対し、亀治郎の、伝法で徒な、小股の切れ上がった姐御な魅力は好対照。

演者も観客も一体になった明るく楽しいステージ。喜劇的な演技、様式でいえば吉本新喜劇も同様だが、様式の洗練と美しさに歌舞伎の凄さを認識した。

歌川広重<名所江戸百景>のすべて 展

金比羅宮展と同時開催されてる、歌川広重<名所江戸百景>のすべて。
金比羅様のおまけのような規模の展示は、芸大が所有する浮世絵貼り込み本からの剥離修復した江戸百景を全作展示するという事業完了記念の企画。
観るまで知らなかった展示だったが、これは面白い。絵としての面白さは勿論だが、富士山と筑波山がランドスケープとなった江戸の風景、植物や水辺の様子など実に面白く、図録は時代小説を読む時の参考書としても最適。

2007/07/23

金比羅宮 書院の美展

http://www.konpira.or.jp/event/2007_the_traveling_exhibition/index.htm

金比羅さんから書院10室を飾る襖絵を運び込み、原寸大で再現展示する試み。襖絵で取り囲まれた部屋の空間感や絵の関係性が如実に示される分かりやすさはあるが、現地の雰囲気を想像で補うには限度もある。

部屋は、応挙4室。若冲1室。岸岱3室、他2室という構成。

やはり応挙は良いのである。大きくて繊細。華麗だけど渋い。それに愛嬌がある。虎の間は、様々な姿態の虎を描いている。眼光鋭く身構えたり、様子をうかがったり、くつろいで寝入っていたりする虎たち。一応、虎と謳われてはいるが、こいつらどう観ても猫である。大猫。しかも可愛い。虎がいないので猫の写生で間に合わせた感に情状酌量の余地は有る。いかにも堂々としているところが並でない。とらねこの起源はこの時代か。

若冲は1室だけだが百花繚乱。濃密さに全身からめとられそうな、曰く言い難い空間が印象的だ。

岸岱は蝶々の乱舞する襖絵も良かったが、柳と鷺の大胆なあしらいが効果的な柳の間が面白い。ぐるり四面を取り囲んだ襖絵に、カメラが横にパンするように観ていけば、まあことは足りるが、岸岱は大柳の幹と枝葉を大クロースアップで空間の基本を設定し、岸辺を中景に、舞わせた白鷺を大ロングショットで捉えるという構成で見せる。なので当然視線は前後左右に揺さぶられる。岸岱は他の部屋でもこの視点移動の仕掛けを、好んで取り入れている。それが一番成功した柳の間。ちょっと偏執的でグロテスクな柳が、ミクロからマクロへと焦点距離を伸び縮みさせる細工とよく調和して、ダイナミックな空間に演出している。

2007/07/22

山野辺進・松山ゆう展「スクリーンの残映II」


挿絵と言われた時代から、端正で都会的な画風で知られた山野辺進。矢作俊彦のデビュー作もそうだったが、デッサンの確かさと洒落た構成の挿絵に、更なる格好良さを添えられたハードボイルド系の小説も少なくない。この山野辺画伯、熱心な映画ファンとしても知られ、今回スクリーンをモチーフにした作品での親子二人展ということで出かけた。

ヘンリー・フォンダ、ランドルフ・スコット、リチャード・ウイドマーク、ニヤッと笑ったバート・ランカスターの歯の白さったらベラクルスね。ジャック・パランスもニヤついてたね。懐かしいなぁ。50〜60年代の西部劇。ブロンソンはチャトズランドからってのも泣かせる選択。墓石と決闘のジェームズ・ガーナー。これはジェームズ・ガーナーがというより、ワイアット・アープ好きからのように見える。ワイアットといえばヘンリー・フォンダ。

画伯はヘンリー・フォンダが大好きなようだ。ヘンリー・フォンダが何枚もある。中でも荒野の決闘の名シーン、椅子に座り柱に足を突っ張らかってゆらゆらバランスを取っているところが絶妙のタッチで描かれている。ヘンリー・フォンダへの敬愛が滲み出てとてもいい絵だ。クレメンタインとのツーショットも。

アーネスト・ボーグナイン、リチャード・ブーン.リー・マービン、ジャック・イーラム、か、こうなるとヘンリー・シルバとかウッディー・ストロードなんかも観たかったかも。それにしても、昔の役者はいい顔してたなぁ。
フランスからはジャン・ギャバン。今はいなくなっちゃったこういう貫禄。
日本でも山形勳、伊藤雄之介、月形竜之介、三島雅夫とか。戦後日本が60年かけて何を失ってきたか、役者の顔の変遷からも窺えそうな気がする。

女優はビビアン・リー、キム・ノバック、マリリン・モンローと数も少な目。どうやら苦手のよう。技巧的だが気持は真っ直ぐ。そういう絵だった。

銀座松坂屋第二別館1Fアートスペース GINZA 5
2007年7月18日(水)〜7月23日(月) 

2007/07/18

直木賞 松井今朝子 

松井今朝子さんの直木賞はうれしい。
受賞作「吉原手引草」については、浅田次郎の選評が誠に当を得ている。

失踪した花魁の謎を追う、という始まりから、
吉原という特異な場所の文化、暮らしの細部に焦点を合わせ、
蘊蓄が蘊蓄を越えて物語をグイグイ押し進める。
次第に全体像がくっきりと浮かび上がってくる。
プロセスの醍醐味に鮮やかな落ち。

見事な語りのテクニックと構成の妙は
ぽっと出の新人には出来ない芸当だろう。
経験と研鑽に裏付けられた、目も手も高い大人の仕事だ。

この1年間せっせと読み進めた川上弘美と松井今朝子。
松井今朝子のハードカバーは全部集めたが、古本ばかり。
遅れてきたファンとしては後ろめたくもあったが、
唯一新刊で買った新作の受賞でそれも消えた。

川上弘美の芥川賞選考委員就任ともどもめでたいことなのだった。

2007/07/17

ダイ・ハード4.0

名を知られたハッカー達の変死が相次ぐ。ジョン・マクレーンが保護に向ったハッカーがいきなり襲撃される。そこからノンストップのパニックアクションが120分。

苦虫かんだような表情で人生訓垂れるブルース・ウィリスがチャーミング。ヒッキーなハッカー、ジャスティン・ロングとのコンビネーションもいい感じ。マギー・Qの悪役も切れが良くてかっこいい。

スケールもあり、展開も速く退屈する間もなく楽しめる。ただ、既視感がつきまとうシーンが多い。何故かと思いながらみていたが、どうも観たことがあるようなアクションが続くのだ。例えばデイライト、スピード、トゥルーライズ、チェーンリアクション、M・Iシリーズ、インディペンデンス・デイ等々。
スケールアップされ、アレンジし直されてはいても、やっぱり似ている。映画何本ものクライマックスが並んだような破壊力。大ヒットに向けた関係各位の熱意がこうした形になっているようだ。確かに凄いが、こうした刺激のインフレからはどこか平板な印象も生じてくる。大艦巨砲主義の副作用か。

電波ジャックした犯人が、歴代大統領が演説した映像をつぎはぎした犯行声明をオンエアするのだが、アイディアとつなぎ方の巧さでこの作品最良のシーンではありました。

ところで、4.0とは、web2.0とか.0がかっこいいからつけた邦題なのだそうだ。原題のメッセージ性は微塵もないが、タイトルとしては、そこが却ってかっこいいじゃん、ダイハード4.0。


原題:Live Free or Die Hard
監督:レン・ワイズマン
脚本:マーク・ボンバック
撮影:サイモン・ダガン
音楽:マルコ・ベルトラミ
美術:パトリック・タトボロス
出演:ブルース・ウィリス、ジャスティン・ロング、マギー・Q、ティモシー・オリファント、クリフ・カーティス、
2007年アメリカ映画/2時間12分
配給:20世紀フォックス映画

2007/07/08

しゃべれどもしゃべれども

無愛想な美人、クラスに馴染めない小学生、しゃべりが苦手な野球解説者とコミュニケーションに問題を抱えた3人の面倒を見ることになったのは、思う様に腕が上がらない二つ目の国分太一。この面々が落語を通してそれぞれの人間力を開花させていく同名小説の映画化。

師匠伊東四朗の火炎太鼓に惚れ直し、自分も火炎太鼓に挑戦する国分太一。火炎太鼓と言えば志ん生だが、だからといって、伊東四朗に志ん生のコピーさせることはないだろう。さらにそれを国分太一がコピーするような案配で、国分太一がブラザートムにとても似ていたのもあわせて、どうも落ち着かない気分にさせられた。

高座の時間経過をワイプで見せるのも落ち着きが悪かった。ワイプは、スターウォーズにしても、黒沢的な使い方で、お話変わってというような時間と場所を転換する場合に使われることが多い。そうしたリズムに慣れているから、今回のような、高座の一席をショートカットするような使われ方には、間の感覚が違いすぎて、生理的にも違和感が生じた。
そんなわけで、真面目に作られたハートウォーミングな物語なのだが、諸々自分には合わなかった。
最後に恋愛映画になったのも釈然としなかった。

監督 平山秀幸
原作 佐藤多佳子
脚本 奥寺佐渡子
音楽 安川午朗
出演 国分太一 、香里奈 、森永悠希 、松重豊 、八千草薫 、伊東四朗
時間 109分 2007年