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2010/02/03

「束芋」 断面の世代 横浜美術館


新聞小説の挿絵とアニメのインスタレーションで構成された展示。作者の関心はメタモルフォーゼにあるようで、体や内臓が様々に変容していくイメージが繰返される。これも身体性を意識する、あるいはこだわりか、バーチャル度を高めていく社会が強く意識されているようだが、批判的な視線は感じられない。20世紀前半ののアバンギャルドを思い起こさせるようなイメージもあるが作品には破壊的なところはなく、結構スマートかつクールな様子でまとまっている。何だかスルっとすり抜けていくようでどうも取っ掛かりが無いのだ。何と言うか、モツ煮込みのようなのだが、モツ本来の臭みや歯ごたえはなくて、モツが洗練された感覚でお洒落に料理されているような感じなのだった。熱いけれど冷静なのだ。

「内藤 礼」 展  神奈川県立近代美術館 鎌倉


鶴ヶ丘八幡宮境内の木立に建つ、直線で構成された美術館はいかにも近代というに相応しいモダンなシルエット。くたびれ具合も程よく、いつ来ても静謐な佇まいは魅力的だ。
その環境、建物の全体を大胆に使いながら、作家は繊細でしなやかな空間を創り出した。
都市の利便性がもたらす恩恵。しかし予定にしばられ、ネットに依存し、情報に振り回される毎日。管理体制は強まる一方で何もかもが複雑化、あるいはブラックボックス化するリアル社会にストレス募らせ、それだけに一層バーチャル化も加速する。次から次に生み出される様々な病理現象に到底対応仕切れない現代社会。そのような状況に人はどう対することが出来るか。内藤礼は展示ケースの中にギャラリーを招き入れて静寂を聞けと言い、闇の深さを思えと言う。空中に吊るしたリボンを揺らす風の恵みに感謝し、空の青さに畏敬の念をいだけと、あるいは、目を凝らせなければ見えないものを見ろと、そんな風には言っていないが、言っているように感じたのだった。アバターもサロゲートも内藤礼も言っていることは同じ、身体性の回復。五感を楽しませ想像力を羽ばたかせる。都市生活者は野生を忘れてはいけない。自然との回路はいつでも開かれているのだ。そうなのだ、チャンネルはオープンなのだと美術館を出れば、境内には真冬の風が吹き渡る。鎌倉時代にも吹いた冷たさだろうか。

2009/09/03

メアリー・ブレア展


ウォルト・ディズニー自身が手がけたアニメーションはどれも素晴らしく、世代、時代を問わず世界中から支持されてきた。「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「バンビ」「ピニキオ」「ファンタジア」等々、傑作名作数多ある中、海賊と対決する少年のファンタジックな物語とウサギ穴に落ちてマッドな遍歴を重ねるハードボイルドな少女の話は、大人になっても男の妄想を刺激してやまぬ最重要作品なのである。この重文級の2作品に「カラースタイリスト」として関わったのがメアリー・ブレア。ということで作品展を観てきた。

1940年代から50年代のディズニースタジオでコンセプトアートを担当。退社後は商業デザインに転じ成功を収め、ディズニーランド建設に際して「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインを依頼されたという華々しいキャリアだが、女性の社会進出が一般的ではなかった時代、できる女性としての苦労は並大抵なものでは無かった。らしい。

気鋭の水彩画家として頭角を顕した初期の作品は動きを捉える鋭い写実が魅力だが、いかにもアカデミックなファインアート。ところがディズニースタジオでは一転して大胆な平面処理と抜群の配色センスが魅力のモダンデザイン。50年60年前とは思わせない鮮度を保っている。メアリー・ブレアの力は言うまでもないが、あの時代そのものが大したもんだったんだとも思う。

映画化されなかった「赤ちゃんバレー」のコンセプトアートが良くできていて、映画化されたのを観たかったと思うほどに印象的。映画化された仕事は「シンデレラ」「ピーターパン」「アリス」の三つ。この順番はメアリーの作品に対する関わり方の深さに比例していて「シンデレラ」との関係は極めて薄いが、「ピーターパン」では「夜」の描写や「ワンダーランド全景」など作品への関わり方を深めている。さらに「アリス」では、全編にわたってメアリーのアイディアとイメージがそのまま採用された事が良くわかる。
秘密めいて心ときめく夜、永遠の少年が導びくネバーランドの冒険と夜明けの切なさ。変なウサギを追って異形と狂気の面白世界を冒険する少女。大人になるほど味わい深いこの二作品の核心をメアリーがどれほど見事な色彩で形象化したか。完成された映画からは見えてこないが、物事を決定づける仕事を目の当たりにする醍醐味。

メアリーの公私を年代順に整理した展示は見やすく分かりやすい。「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインの過程も興味深い。こうした子供の幸せを基本に据えて仕事を続けたメアリーが、しかし最晩年にはそれまでとは似ても似つかぬ性的な作品を製作していたという大逆転。これにはたまげた。そんなに抑圧されていたのかという意外感もある。作家の軌跡、変容として受け止めるにも唐突で、どぎつい数点の作品は全体の中での落差も際立っている。最後の最後になって全体を別の色彩に染め上げてしまうまうどんでん返しのインパクト。この思いがけないエンディングは刺激的で興味深いのだが、夏休みにご家族向けの展示を観に来た小学生の男の子が猥雑な作品にしげしげと見入っている姿は決してメアリーが望んだことではないだろうし、少年の親御さんとて同じだろうと複雑な思いがした。

2008/09/08

loversー永遠の恋人たち トレース・エレメンツ展

歩き、立ち止まり、きびすを返し、走り、両手を広げ、抱きしめ、消失する。
部屋の中央に積み上げられた7台のプロジェクターから投影された人たち。
輪郭を黒壁に溶かして浮かび上がる裸の男女が同じ動きを繰り返している。
それぞれ動きは独立し動きにそれ以上の意味はなく、互いに何の関係も無い。
だが、制御されたプロジェクターが交錯して、個々の動作に意味が生まれる。
一連の動きが、おいかけ、すれ違い、抱擁など関係を示す動きへと変化する。
儚く不確かなゆえ、より強固にしようとする人の営みを照らすように、
等身大の五つの裸体が4面の黒壁を世界に繰り広げるエンドレスライフ。
機械の同調が産んだ静かで美しい幻影。

もし若い頃、辛い恋愛や立ち直れない失恋の渦中にこの作品に出会ったなら、
その辛さにしっかり向き合える力が湧いてきたのでは無かろうかと思わせる、
loversー永遠の恋人たちと題されたビデオインスタレーション(古橋悌二作)
09.8.30

「トレース・エレメンツ 日豪の写真メディアにおける精神と記憶」展
東京オペラシティーアートギャラリー

2008/08/21

君の身体を変換して見よ展

会場のある東京オペラシティータワー、初めてなのに前に来たような気がする。デジャヴ?、いや、駅からのアプローチが以前行ったことのある白金のプラチナタワーとそっくりだからと思い至った。最近はこの手が流行なのか。 

ピタゴラスイッチでおなじみの佐藤雅彦先生が夏休みの子供達に向けて用意した「君の身体を変換してみよ展」。案内によれば、「人間の身体感覚を刺激して身体の気持ちを考える実験装置ともいえる作品」の展示。とのこと。
くぐる、通す、振る、はねる等、簡単な身体の動きをコンピューターが別の情報に書き換える。その意表をつく変換を遊ぶうちに、身体感覚が拡大し更新されるような気分が沸き上がってくる。これまでに様々に工夫されてきたコンピューターはヒューマン・インターフェース。いっそ自分の身体そのものをインターフェースにこんな遊びはどうでしょう。という感じで、作品というより遊具として親子が楽しそうに興じている。クールでシンプルな表現にユーモアとぬくもりが伝わってくる佐藤雅彦らしさ溢れる仕掛け。もちろん大人でも楽しい。会場のおねえさん達が親切で感じよかったのも高ポイント。

信頼すべき筋から、なるべく午前中早く、出来れば複数で行くべしとの情報を得られたが、本当にそうだ。都合で一人で行ったが、一人じゃつらい遊びもあった。でもそれは作品のせいじゃない、こちらの過剰な自意識のせいなんだけど。

会場のICC(NTTインターコミュニケーション・センター)には、変換してみよ展の他に長期展示の作品がある。いずれもコンピューターと融合し、インターフェースにこだわった、環境的体感的刺激的かつ美しい作品。勉強不足でここは今迄ノーマーク。3階のギャラリーも合わせて、今後は要チェックだ。

2008/07/07

フランスが夢見た日本-陶器に写した北斎、広重

井上雄彦展 (上野の森美術館)
最終日前日の5日(土)午後、愚息1号と出かけた。しかし、入場整理券の配布は午前中で終了でいくら並ぼうと入場叶わぬと知らされ、あえなく頓挫。そのようなシステムだったとは知らなんだ。長蛇の列を前に己の不明とドジ加減を呪った。行く当てを無くし、上野の山で途方にくれた。西洋美術館でコロー展が始まったばかりだが、気がのならない。三秒迷って国立博物館に向かう。

特別展「フランスが夢見た日本-陶器に写した北斎、広重」を観る。
19世紀後半、ジャポニズム華やかなりしフランスで浮世絵の絵柄を元にして作られた高級食器の数々。その原画を丹念に掘り起こして対照展示してある。北斎漫画などを手本にしたルソーセットのプリミティブな味わい。浮世絵をそのまま描きだしたかのランベールセットのモダン。フランスが発見した日本の魅力を教えられる妙な感じが新鮮で面白かった。武蔵が駄目ならせめて刀でも拝んでこようかと常設の展示へ。日本刀のコレクションを観る。冴え冴えと輝く刃と緊張感漲る刀身の反り。観るうちに畏敬の念が生じ、次第に気持ちも鎮まってくる。日本文化の洗練を深く感じる。

武蔵もだが、歌舞伎座7月昼の部、買おうとしたら既に完売。2500円の席がヤフオクで10000円でも落とせなかった。武蔵も義経も凄い人気なのである。

2008/05/06

薬師寺展 

聖観音菩薩立像、日光菩薩、月光菩薩の背面が拝観できる得難い展示、しかも東京でということで、大混雑を覚悟して行ったが、上野の人混みは予想を上回って、5月5日の貫禄を改めて見せつけられた。薬師寺展は45分待ちで入場。
     
聖観音菩薩立像、左右対象の安定感ある造形、裳裾の文様の美しさ、端正で品のあるまっすぐな仏さんである。両足に体重をかけて直立した聖観音に較べると、それぞれ片足に重心を移し、腰に軽いひねりを加えたポーズで立つ日光、月光菩薩像には余裕が感じられる。
     
リラックスしたポーズもだが、モデリングも伸びやかで肉付きが良く、全体に自由度の増した気配も窺える。背面は思いがけないボリュームの豊かさに驚いた。薄衣をまとった下半身、正面からは左右の脚に浅いドレープのような皺が美しく 刻まれている。背面に回ると、その薄衣は体側から尻にかけ左右対象できれいにプリーツされている。よくデザインされたシルエットの美しいコスチュームだ。優美で力強く清潔感とともに色っぽくもある薬師寺の日光月光像。時代を超えた着こなしの美しさでも輝いているようだ。

2008/04/06

村田朋泰展「夢がしゃがんでいる」


12日から平塚美術館で開催される村田朋泰展の「 展示作業公開ツアー 」に参加。午後2時集合。学芸員さんの案内で展示作業も大詰めの会場を回る。夢といっても仰ぎ見るような大き夢ばかりではない、しゃがんで見るようなささやかな夢もある、というタイトルは稲垣足穂の短編から取ったとのこと。

館内を全面的に改装し、とある温泉地に一泊旅行する男の道中を同時体験できるように構成された展示は、シュールでキッチュなテーマパークのような趣を呈している。静謐な叙情や喪失感の深さで、心に染みる映像表現が持ち味の作家本人も顔を見せてくれたが、今回の展示はそうした持ち味を一切封じ込め、俗でエロな展開が大理石の美術館を挑発している。最後は路シリーズの最新作「檸檬の路」を鑑賞。イマジネーションの新鮮さはいつもながらだが、読書室の群像を動かした技術が素晴らしい。

村田朋泰の世界はとても男臭いと思うのだが、ツアー参加の男は自分だけで、女性専用車両に紛れ込んだようだった。普段は見られぬ館内の様子は興味深く、全て出来上がった展示を見る楽しみが増えた。

2007/08/20

森村泰昌 展 横浜美術館

自分自身を素材に、誰でも知っている名画や有名人なら年齢性別を問わずになり澄ます。初めて知った時はスキャンダラスでいかがわしい表現にインパクトも強烈だったが、その後も広がりのある表現を展開し、今や森村泰昌という確固としたジャンルとして成立している。その森村が、自身の表現の何たるかを、自らの解説付きで美術の授業に見立てて展示しようという、作品と展示方法が遊び心と自己顕示とに対応する、いかにもバランスのよい企画に見える。

1時限のフェルメールから6時限のゴヤまで、美術史を飾る名画になり澄ました森村が、その狙いと方法をお惜しみなく開陳し啓蒙を図る。ふーん、画面そのままを原寸大で再現し、CGでまとめたフェルメールに感心した。2時限目はゴッホのなり澄ましに使われた紙粘土の顔面と釘の帽子を軸にした名画セット。ゴッホの帽子にもグッときたが、ベラスケスのマルゲリータ像のセットは、なり澄ます為に示されたエネルギーがそのまま結晶したかのような美しさ。森村の創意と気迫に感動した。

思うに、初期の作品程、なり澄ましに徹する森村の努力が画面に深みを与えているようだ。後半になると、作家として認知されるにつれ作家本人のキャラクターが前面に出て、例えば5時限のフリーダカーロなどは、なり澄ましにも作家からのメッセージ性が強く反映されるようになっている。画面は大型化し表現は洗練されているが、作品としては、批評性の濃い後期の作より、紙粘土に着彩した3Dのマチエールに魅力がある初期作品が、自分は好きだ。

放課後は三島事件の再現パフォーマンス。ギャラリーは自衛隊員のポジションなので、これはこっちが無視することで成立する作品かと、とっとと退場した。

出口に向う途中、常設部屋にマン・レイの写真が展示してあった。シュルレアリズムの作家達の肖像。イブ・タンギー、いい顔してる。若き日のダリ、ジゴロか、こりゃどんな男も敵わない色男振りだ。キリコ、神経質。トリスタン・ツァラが寝そべってる。エリュアールとブルトンが至近で見つめ合ってる。君ら太陽がいっぱいのアラン・ドロンとモーリス・ロネみたいじゃないか。そうなのか? あと誰だったけか、近頃、名前を思い出せない。

2007/08/17

青山二郎の眼 展

世田谷美術館 2007年6月9日(土)8月19日(日)
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

砧緑地。少しも涼しく感じられない緑陰の小径に蝉時雨。木立の奥には芝の緑に真昼の輝き。それはきれいだがとにかく暑い。
昔、たぬきはいても人はいないと言われた砧。少し下流の対岸には屋形舟が浮かび、蛍も飛んでいた。東名はまだ無く、246は弾丸道路と呼ばれていた。玉川に高島屋が出来るずっと前のこと、などとしばし懐旧の情にかられながら館内に。

前半は青山二郎セレクションによる中国、李朝の陶磁銘品の数々。さっきまでの暑さが別世界のように、青磁、白磁がつややかな肌を晒してすっきりと立っているのが印象的だ。それにしても、ギャラリーは年配のご婦人ばかリで男の姿が極端に少ない。

後半は青山二郎の骨董コレクションと装幀の仕事が通観できる。
小林秀雄と青山が畳の上に小物を並べて対峙している大きな写真が壁面を飾っている。要するにこういうことなのだな骨董ってのは。箱から出して掌に乗せ、ためつすがめつ愛玩するところがよろしいのだろう。失われた、あるいは積み重なった時間が自分の手に乗っている。それがくぐり抜けてきた時間に思いを馳せ、手の平で転がし、時に使ってみる。なんと贅沢な、ロマンティックなことではある。美術館のケースの中に凝縮された美を探すのとは自ずと別次元に属することでもあるのだろう。

山ほどのジャンクに囲まれ、骨董などにはおよそ縁のない生活者としてこの展示、参考にはならないが随分と勉強にはなった。

2007/07/24

歌川広重<名所江戸百景>のすべて 展

金比羅宮展と同時開催されてる、歌川広重<名所江戸百景>のすべて。
金比羅様のおまけのような規模の展示は、芸大が所有する浮世絵貼り込み本からの剥離修復した江戸百景を全作展示するという事業完了記念の企画。
観るまで知らなかった展示だったが、これは面白い。絵としての面白さは勿論だが、富士山と筑波山がランドスケープとなった江戸の風景、植物や水辺の様子など実に面白く、図録は時代小説を読む時の参考書としても最適。

2007/07/23

金比羅宮 書院の美展

http://www.konpira.or.jp/event/2007_the_traveling_exhibition/index.htm

金比羅さんから書院10室を飾る襖絵を運び込み、原寸大で再現展示する試み。襖絵で取り囲まれた部屋の空間感や絵の関係性が如実に示される分かりやすさはあるが、現地の雰囲気を想像で補うには限度もある。

部屋は、応挙4室。若冲1室。岸岱3室、他2室という構成。

やはり応挙は良いのである。大きくて繊細。華麗だけど渋い。それに愛嬌がある。虎の間は、様々な姿態の虎を描いている。眼光鋭く身構えたり、様子をうかがったり、くつろいで寝入っていたりする虎たち。一応、虎と謳われてはいるが、こいつらどう観ても猫である。大猫。しかも可愛い。虎がいないので猫の写生で間に合わせた感に情状酌量の余地は有る。いかにも堂々としているところが並でない。とらねこの起源はこの時代か。

若冲は1室だけだが百花繚乱。濃密さに全身からめとられそうな、曰く言い難い空間が印象的だ。

岸岱は蝶々の乱舞する襖絵も良かったが、柳と鷺の大胆なあしらいが効果的な柳の間が面白い。ぐるり四面を取り囲んだ襖絵に、カメラが横にパンするように観ていけば、まあことは足りるが、岸岱は大柳の幹と枝葉を大クロースアップで空間の基本を設定し、岸辺を中景に、舞わせた白鷺を大ロングショットで捉えるという構成で見せる。なので当然視線は前後左右に揺さぶられる。岸岱は他の部屋でもこの視点移動の仕掛けを、好んで取り入れている。それが一番成功した柳の間。ちょっと偏執的でグロテスクな柳が、ミクロからマクロへと焦点距離を伸び縮みさせる細工とよく調和して、ダイナミックな空間に演出している。

2007/07/22

山野辺進・松山ゆう展「スクリーンの残映II」


挿絵と言われた時代から、端正で都会的な画風で知られた山野辺進。矢作俊彦のデビュー作もそうだったが、デッサンの確かさと洒落た構成の挿絵に、更なる格好良さを添えられたハードボイルド系の小説も少なくない。この山野辺画伯、熱心な映画ファンとしても知られ、今回スクリーンをモチーフにした作品での親子二人展ということで出かけた。

ヘンリー・フォンダ、ランドルフ・スコット、リチャード・ウイドマーク、ニヤッと笑ったバート・ランカスターの歯の白さったらベラクルスね。ジャック・パランスもニヤついてたね。懐かしいなぁ。50〜60年代の西部劇。ブロンソンはチャトズランドからってのも泣かせる選択。墓石と決闘のジェームズ・ガーナー。これはジェームズ・ガーナーがというより、ワイアット・アープ好きからのように見える。ワイアットといえばヘンリー・フォンダ。

画伯はヘンリー・フォンダが大好きなようだ。ヘンリー・フォンダが何枚もある。中でも荒野の決闘の名シーン、椅子に座り柱に足を突っ張らかってゆらゆらバランスを取っているところが絶妙のタッチで描かれている。ヘンリー・フォンダへの敬愛が滲み出てとてもいい絵だ。クレメンタインとのツーショットも。

アーネスト・ボーグナイン、リチャード・ブーン.リー・マービン、ジャック・イーラム、か、こうなるとヘンリー・シルバとかウッディー・ストロードなんかも観たかったかも。それにしても、昔の役者はいい顔してたなぁ。
フランスからはジャン・ギャバン。今はいなくなっちゃったこういう貫禄。
日本でも山形勳、伊藤雄之介、月形竜之介、三島雅夫とか。戦後日本が60年かけて何を失ってきたか、役者の顔の変遷からも窺えそうな気がする。

女優はビビアン・リー、キム・ノバック、マリリン・モンローと数も少な目。どうやら苦手のよう。技巧的だが気持は真っ直ぐ。そういう絵だった。

銀座松坂屋第二別館1Fアートスペース GINZA 5
2007年7月18日(水)〜7月23日(月) 

2007/06/23

レオナルド展 アートで候展

6月9日
上野のレオナルド展にいく。開館前30分並んでご対面。遠くから徐々にアプローチしていく段取り。印刷物では感じなかったが、マリアの顔が誰かに似ている。あ、そうだ、藤田の描く女性のようだ。と思ったら何だか余計藤田的に見えてきた。藤田はきっとこのマリアに触発されたに違いないと、勝手に確信した。
洗礼名だってレオナルドであることだし。

1消失点の遠近法と空気遠近法の併用による奥行きの深い表現が視線を画面奥の白い山へと誘導する。この山が異様に強い存在感を発揮していて、つい見入ってしまう。画面を横切る白い石塀を横棒に、山へと一直線に向かう視線は縦棒とすれば、ほとんど十字架を真上から俯瞰したような構造の空間でもある。
受胎を告知されたマリア。キリストの受難が不可避となった瞬間。マリアと対峙するガブリエルの不気味な表情は、この母子の行く末を幻視した故のことなのか。この瞬間から始まったキリストの歩み。幾多の苦難を越えて歩みを進め、受難へと向かうその生涯を暗示するかの様に、謎めいた白光に包まれた山が、輝きそびえ立っている。

レオナルドの次は上野の森美術館、アートで候展に急ぐ。今を時めく山口晃と会田誠の二人展。実に楽しみにしていた展覧会でもある。ミーハー的に山口目当てで出かけたがそれを上回る素晴らしい山口晃。会田誠の毒と腕力には押し倒された感じもある。絵が上手いということは実に大したもの。大友克洋、松本大洋、山口晃こうした画狂人たちが提供してくれる快感に浸る喜び。

上野を後に東京駅から新木場経由お台場。ノマディック美術館グレゴリー・コルベール展。
少年と象、鷲と女性クジラと男などで組み合わさった、人と動物のシンプルかつダイナミックな交歓の様子をムービーとスチールで捉えた作品の展示。ピュアな存在としての人と動物の有り様を見つめ直す。そんなメッセージがストレートに顕わされている。とても周到な準備と入念な演出の上に成り立っているのが良くわかる。作品はファッション写真のように美しく、劇的かつ感動的な光景が切り取られている。きれい過ぎるし、計算も過ぎていて、見る程に気持が冷めてしまった。カメラに写っていない事象の方により興味関心が向うような気分になってしまった。作品のナイーブな気配と入場料の高さの折り合わなさにも、いかがわしさが感じられるようで、この作品展は見込み違い、計算違いだった。

2007/05/29

若冲展 相国寺承天閣美術館 

5月26日(土)朝5時起き。9時過ぎに京都駅。その足で相国寺に向かう。開館時刻には余裕なのだが既に150m程の行列。しかしこれぐらいなら上出来、と思ったのはあさはかだった。これはチケット購入の列で、その先入館迄、列は更にうねうねと連なっていた。

一室は「鹿苑寺大書院障壁画」をメインとする水墨画の展示。二室が「釈迦三尊像」「動植綵絵」の一括展示という構成。

一室ではまず新発見初公開という厖児戯帚図(ぼうじぎほうず)。画面を斜めに2分するの大きな箒、ユーモラスというより人を喰った作品だが、まるでマーカーを使って描いたような筆のタッチと色使いの新しさが印象的。その隣の布袋渡河図に脱力し頬も緩んでしまう。さらにカメ、鳥、鯉、龍の洗練とユーモア。しかし圧巻は、何と言っても鹿苑寺大書院障壁画。葡萄の不気味と、芭蕉のスケール。具象を極めて抽象に至ったかと思わせる自在な筆使い。本当に若冲の水墨は魅力がいっぱいで、デザインセンスや空間処理の素晴らしさから生まれる気持よさ楽しさもひとしおなのだ。

「動植綵絵」は昨年大がかりな修復作業を終えて、宮内庁三の丸尚蔵館で分割展示されたうち一期分だけ観た。それだけでも迫力充分だったが、「釈迦三尊像」を取り囲んで全作が並んだ様は、華麗な色彩が溢れかえって荘厳な中にも異様さが漂う。
鶏の緻密、雁の大胆、鳳の官能、鸚鵡のユーモア、貝の怪奇、花の狂気。人間業とは思えない観察と集中力で描き込まれた生きとし生けるものの姿。その中心には釈迦三尊。全三十三幅に人間は描かれていない。しかし、見事な筆によって描かれた生き物達にぐるりと取り囲まれたその真ん中に生身の人間がひしめいている。その中にいて、ふと、これって、若冲の宇宙観宗教観そのままではないのか、これこそ、三十三幅に込められた願い、若冲が意図し演出したところの、生きた曼荼羅とでも言うべき宗教的空間なのではないかと思い至った。
図録2500円の出来にも満足。

2007/05/07

異邦人たちのパリ 展


品川、銀座経由で地下鉄乃木坂駅。国立新美術館にやってきた。裏口からのアプローチのよう。モネ展とのセットなら200円安くなるらしいがやめとこう。GW も真っ盛りで女性トイレには列ができている。
今迄何度か来ようと思いながら、人出が凄そうだと先延ばしにして、結局最悪の時期に来てしまった。しかし、最悪はモネ展だったようで、会場は混雑という程のこともない環境だった。

藤田のお出迎えから定番のビッグネームが続いて、何というか、この安定感は何だって感じは建物の尊大な印象に影響されたせいかも知らん。

マン・レイをはじめとする写真家たちの作品が面白い。アンドレ・ブルトンのカラー写真を初めて見た。ブルトンは嫌いだが、ブルトンの「ナジャ」は大好きだ。あれは自分が読んだ恋愛小説のオールタイムベストだったてなことをチラッと思い出す。

会場を出たらさすがに疲れを実感したが、人が多くて休む場所も無い。それなら話題のミッドタウンまで行ってしまえと歩き出す。
ミッドタウンはもっと凄かった。連休中の人出は相当なものだろうが、これから先、どれくらいの賑わいを見せるだろうか。閑散としたイメージばかりが脳裏に浮かんだ。

2007/05/04

エリオット・アーウィット写真展

アーウィットの写真集「PERSONAL BEST」の中から、各界著名人にお気に入りのショットを選ばせ、それをベースに再構成したという、手の込んだというか贅沢な趣向の写真展。それでいて、誰が何を選んだかというような表示は一切排されている。写真家と観客への敬意と主催者の誇りが示された入場無料。

著名人を写した作品はどれも見事な瞬間と表情とが捉えられているが、展示された作品のほとんどは、市井の人々の日常的な時間と空間をスナップしたかと思わせるものだ。あきらかな「やらせ」と見えるものと、偶然にその瞬間をとらえた様に見える作品とがある。絵画的な計算や鋭い批評性に基づいた作品や作為が前面に出過ぎている作品も、実際はどうなのか知らないが、どの作品にも共通して、作為も偶然も超越した決定的瞬間というものが明らかに見て取れる。

犬のジャンプ、子供の眼差し、老人の横顔、何時、何処で、誰を撮っても、何を撮っても、そこには奇跡としか思えない瞬間が写り込んでいる。必要な時に必要な奇跡を演出して見せるエリオット・アーウィット。

シンプルで分かりやすく、ユーモラスで美しいが、しかし、どこか必ず、何?どうして、と思わせる謎めいた事物が入り込んでこちらの一方的な理解は拒まれてしまうのだ。何気ない写真に潜む大いなる力と、ミステリアスな魅力。

E・アーウィット公式サイト http://www.elliotterwitt.com/lang/ja/index.html

ヘンリー ダーガー展 「少女たちの戦いの物語—夢の楽園」


1892ー1973  4歳で母と、8歳で父親と死別。知的障害児の施設に移されるが16歳で脱走。その後は一生を通して皿洗い兼掃除人として働きながら、1973年81歳で孤独のうちに生涯を閉じる。死後、部屋からタイプライターで清書された1万5145ページの戦争物語『非現実の王国で』とそのために描かれた300余点の大判の挿絵が発見され、その生涯と独創的な作品が注目を集める。

公序良俗に反する、と言っていい。
雑誌から切り抜かれ、カーボン紙でトレースされた少女達。世界は完全武装の兵士達と少女達で成り立っている。超ワイドな縦横比の画面に、ロリの変態かと見紛うヤバさのまま、パノラミックに繰り広げられるイメージの数々。

自作の物語に即した挿絵は大がかりなきいちの塗り絵のよう。何年にも渡って描き連ねてきた作品は、様々なサイズの紙を張り合わせ、全て同じ大きさに統一されている。それだけでも異様だが、更に驚いたのは紙の裏表にびっしりと作品が描き込まれていたこと。

戦う少女たちのイメージもその技法も一つ一つは月並みだが、組み合わせ方によって他に例を見ない独創的な世界が生まれている。

世間との接触は必要最小限度にとどめ、自分の空間で妄想と幻視を極めた男。溢れるイメージを描き出すために、紙を集め、しかるべきサイズに張り合わせること。用意が整った紙面に少女達のイメージを存分に描き込んで行く時間が、どれ程の至福をもたらしたか。生前、膨大な作品を誰にも見せることの無かったという事実が、その至福の濃密さを何より雄弁に物語っている。

妄想と幻視を、作ること、描くことの純粋な喜びに昇華した男の一生。引きこもりの大いなる先達が愛して止まなかった少女達の戦いも、作者の死後 30年を経過した今現在、一層のリアリティーをもって展開されていることを思えば、彼は幻視者などではなく、筋金入りのアウトサイダーだったかと納得がいった。

原美術館 http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html  

2007/03/23

「日本美術が笑う」展

午前中は地元で義父の墓参。午後からは両親の墓参に大井町まで。電車の中ではロング・グッドバイを読むが、気がつけばトロトロしている。寝不足のせいだが、清水訳よりはるかに饒舌なマーロウのせいだったかも。
形通りの墓参。若い時は軽んじていたが、最近は素直に手を合わせている。ほんと、いつの間にか歳取っちゃったんだよなぁ。

大井町から品川経由恵比寿下車、日比谷線の改札でSuicaを試してみる。無事通過できてホッとする。六本木下車。

日本美術が笑う展 森美術館
日本美術を「笑い」を軸に縄文から20世紀初頭までを通観しようという試み。一般的にユーモアはシリアスより軽んじられる。美術作品も例外ではないから、これはチャレンジングな好企画と言える。

実際、巧みに構成編集された展示には、するするっと方向付けられ、そのまま啓蒙されてしまうような説得力があるが、自分で、笑える作品と笑えない作品に分類しながら見るのも楽しい。

埴輪の動物達の、愛すべき稚拙さといった味わいに心和ませられるし、洛中洛外図の大胆なる稚拙さ加減には、その正々堂々とした臆面の無さがいっそ痛快で、この企画の目玉のような勢いもあった。あれは反則だと思うんだが。

後半の 笑い展 は理論的裏付けが必須の現代美術だけに、うーん現代の社会的病理現象っぽい作品が沢山、笑える作品は少なく、結構疲れてしまった。

2007/03/11

フンデルトヴァッサー展  日本橋三越

バウムクーヘンの断面を塗り分けたような、層の厚みとともに記号化された事象。戦闘的、挑発的、スキャンダラスなフンデルトヴァッサーの作品から、版画とドローイングを中心にした展示。

メタルカラーや対立的な配色、奔放な色使いなどのヤバい要素がよくコントロールされ、魅力的な画面になっている。発色の鮮やかさとデザイン的な面白さで見せる版画が特に素晴らしい。

浮世絵の彫りと刷りの技術の素晴らしさを改めて教えてくれる木版のシリーズと、雨をめぐる叙情的なストーリーを大胆なイメージで展開した孔版の連作はこの展示の白眉だった。

会場の日本橋三越は日本の百貨店文化の頂点に君臨している店だ。展示会場の外側の壁に「自然に優しく」をテーマに募集された小学生の絵がびっしり 貼り出されてされていたが、これも主催者側のエクスキューズに思えてしまうくらい、この風格ある老舗とフンデルトヴァッサーの組み合わせにはミスマッチ感 が強い。
そんなことも全部ひっくるめて、刺激的で面白い展示だった。休日の昼時、混雑もなく、いい感じで観る事ができた。3/3