村上春樹が訳したというだけで充分なのだが、巻末には90枚に及ぶ訳者のチャンドラー論が収録され、その中で、細部が大幅に刈り込まれていた清水訳に並ぶ完訳本としての存在意義も主張している。今迄読んできたのは、清水俊二が恣意的に刈り込んだ「長いお別れ」で、チャンドラーの意図した全ては、願っても無い訳者を得て、今回本邦初公開の運びとなったということ。いやぁ、誠に感慨深くもあり、望外の喜びという他ない贈り物だ。
本文はさておき、早速巻末の訳者あとがきに目を通した。
チャンドラーの文章からその特質を説き起こし、「ロング・グッドバイ」の作品論からグレート・ギャッツビーとの相似性を明らかにして行く展開は、 従来のチャンドラー像、チャンドラー研究を更新する斬新さ。切り口の鮮やかさとともにこの本全体を通してのクライマックスともいえるスリリングな面白さにあふれている。チャンドラーの評伝としての完成度も見事で、本編はさておき、この簡にして要を得た巻末解説は凄い読み応えだ。何より今迄に読んだ数あるチャンドラー論の中でも文句なしに最高水準のものだ。
今年はディーヴァーのチャンドラー論に触れる事ができたのも楽しかった。その上に村上のチャンドラー論が読めるというのも夢のようだ。そのディーヴァーはジャンルを越えた作家とチャンドラーを評していた。村上もディーヴァーと同じ事を、ジャンルとの関係などはじめから無視することで表している。というのも、この本のカバーにも、解説の文中にも、何処を探しても ハードボイルドのハの字も無い。早川が出すチャンドラーにハードボイルドの表記が無い。これは、名代の大看板下ろすようなもので、世が世なら考えられない事態ではある。しかし、早川の営業戦略には今回その必要がなかったのだろうことは容易に想像がつく。村上にとっても、それは同様で、その気持はよくわかる(ような気がする)。