「シャル・ウイ・ダンス」で世界的にも評価され、主演の高名なバレリーナと結婚までしちまった周防監督。その後すっかり音沙汰がなくなって、やはりあれだ けの成功にあの才能もスポイルされちまったのか、とか思ってたもんで、新作製作中との報を目にした時はそりゃ驚き、喜びもしたが、テーマが痴漢というのに は戸惑った。
いくらデビューがポルノだったからって、今更痴漢道を極める作品撮るはずも無く、道理でよく見りゃ痴漢の裁判の話だと。だけど、どんな映画か全く 想像がつかない。想像つかないというより、面白そうな感じが全然しないのだな。そもそも映画になんのかよ痴漢の裁判なんてさぁ。品質の高さとユニークな面 白さでハズレの無かった超高級ブランド周防印が、よりによって痴漢かよ、なんぞと後ろ向きな気持で初日にのぞんだあたしが馬鹿でした。
満員電車で痴漢に間違われた青年。身に覚えはないから駅事務所できちんと釈明し、潔白を主張するが既に犯人扱い。否認するほど、本当を言うほど事態は泥沼と化し、拘置、取り調べ、とあからさまな悪意に晒された挙げ句、起訴、裁判へと悪夢の日々が更新されていく。
青年を演じる加瀬亮。「はちみつとクローバー」ではさほど印象に残らなかったが、「硫黄島からの手紙」での若い憲兵は胸迫るものがあって、あれは 良かったが、今回はまた、痴漢の冤罪に苦しむ主人公を演じて別人のようだ。見るたびに印象が変わる加瀬亮だが、今回の演技はひときわ素晴らしい。何と言う か、抑制された表情のうちに、孤独、不安、焦燥、冷笑、怒りが滲んで、まさに「今」という時代が陰影豊かに刻み込まれたかのような佇まい。ひと昔前なら永 瀬正敏、今ならオダギリ・ジョーのポジションを鮮やかに奪い取るかと思わせるほどの魅力と言うべきか。
脚本演出はもとより、キャスティングからして実に見事な作品だが、中でも裁判官に扮した小日向文世は特筆ものの素晴らしさ。現実のどうしようもな い壁の厚さを、主人公にも観客にも否応なく意識させる、言ってみれば作品の要とも言えるキャラクターをリアルかつ迫真的に演じて凄い説得力。
日常のど真ん中にぽっかり開いたブラック・ホール。出口の見えぬ受難の日々を構成する、保身、怠慢、不正直の総体としての官僚主義。取り調べはも とより、公判が開始され裁判が進むにつれて明らかになって行くのは、罪人を作り出す裁判制度の非人間性。まぎれも無いヒューマンファクターから生まれる、 不条理とも奇妙とも滑稽とも言える主人公の悲喜劇がじっくり描かれて、痴漢の裁判は実に2時間半という長さを観客に意識させない面白さ。
草刈さんちの旦那、凄いのだ。流石なのだ。
監督・脚本:周防正行
エグゼクティブプロデューサー:桝井省志
撮影:栢野直樹
音楽:周防義和
出演:加瀬亮、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、役所広司
2006年日本映画/2時間23分
配給:東宝