2006/05/21

春樹訳 チャンドラー

チャンドラーの「ロング・グッドバイ」が村上春樹訳で来春出版予定だとのこと。
http://opendoors.asahi.com/asahido/boston/002.html

何てこった。 夢想が実現するなんて。

感想> 海辺のカフカ 上・下 村上春樹

少年は世界で一番タフな15歳になろうと思う。猫語を話す独居老人は覚醒する。ドラゴンズファンが海を渡る。全ての道は四国へ。断ちがたい欲望と目に見えぬ悪意。失われた時間は失われたまま、ジョニー・ウォーカーの野望とカーネル・サンダースの思惑が交差する時、秘密の回路が開きはじめる。メタファーに充ちた世界の冒険のメタファー「海辺のカフカ」。

村上春樹は面白い。大概において刺激的だし感動的だ。優しい気持ちにさせてくれるし、静かに力づけてもくれる。ここ数年は、インタビュー、ルポルタージュ、短編集などが相次ぎ、自分などは以前のような村上春樹的世界への欲求が高まっていただけに、「海辺のカフカ」の濃厚な村上テイストには、ある種の懐かしさをおぼえながらすっかり引き込まれてしまった。

懐かしさとは、登場人物達が忘れ物を探し出そうと過去に捕らわれ続けているからであり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出させるからでもあり、そんな風に、物語は一見過去に向かっているようだがそうでは無い。未来のために過去を清算しようとする登場人物達にも懐かしさは漂っている。

絶妙な語り口でスリリングに展開される物語には、生と性、死と暴力が深く立ちこめているし、緻密な構成、洒落た設定、不思議な人物達に気の効いた台詞、スノビズムもペダンティズムも健在。過去の村上作品を集大成するモチーフも網羅されている。

そうした春樹的特徴を十二分に備えながら、しかし、世界への違和感や、居場所の無さに途方にくれるしかなかった過去の登場人物達とは明らかに一線を画した「海辺のカフカ」の登場人物達。感情は押さえられる一方で軽妙さが増している。より平易な言葉によってやさしく分りやすくなった表現に、人を喰ったような大胆さと、心の底の微かな思いに柔らかな光を当てる繊細さとが鮮やかに立ち上がる。

「風の歌を聴け」からこのかた、村上春樹が何を受け取り、何を育んできたきたか。オームと阪神淡路の震災を抱え込んだ挙げ句の、到達点とも新たな出発点とも言えそうな「海辺のカフカ」の、これまでに無い強さと美しさ。全ての面で、新作は洗練の度を深めて素晴らしい。

世界一タフな15歳を目指した少年はどうなったか。何と何と、優しくなれなければ生きていかれぬと思い定め、足取りも確かな一歩を踏み出すのだ。訳書も多い村上の、次はサリンジャーだそうで、これはナイスなキャスティングだが、村上春樹はどうしてチャンドラーに手をつけないかと、思わず夢想するのだった。
                         02.09.26

発行 新潮社 2002.9.10 価格 各1600円+税