2006/10/03

東洲しゃらくさし


平成九年に書き下ろされた松井今朝子のデビュー作。
題名から明らかなように写楽もの。寛永年間に忽然と登場し、短期間に幾多の傑作を残して忽然と消えた謎の絵師。写楽の謎を求めてはいくつかの作品が書かれている。それらは写楽の正体について、魅力的な答えの一つとして了解されるものの、謎は依然謎のまま生き続けている。先人、先達が寄ってたかって発掘し尽くした感のある写楽。そのような写楽を、あえてデビュー作に持ってこようというは一体どんな了見かと思うが、松井今朝子という人がいかに性根の座った、良い根性の持ち主であるかは、一読すれば良く判る。

大阪の狂言作者並木五兵衛が江戸に下った時期と、写楽の登場とが期を一にしているという史実から広げた物語は、上方と江戸の文化的相違を軸に、歌舞伎にまつわる人々の様々な生業、営みをもって写楽とその時代を説き起こし、返す刀で写楽の謎を描き切る。といっても、写楽の謎を解き明かすということではなく、当時の状況に納まる写楽像はこんな風ではなかったかとするその造形にも説得力がある。
客観に徹した作者の態度が心地よい。安易な感傷に煩わされることなく切れのいい叙情が味わえる。歌舞伎の制作、劇評に長く携わっていたという作者の分厚い知識教養も、物語の流れに自然に溶け込んで、単なる蘊蓄の辛さもない。

新人のデビュー作と感じさせぬ、悠揚迫らぬ筆致で描かれた写楽の時代。感傷に訴えようとはしない作者だから、こちらも作中人物への感情移入や思い入れもなく読み進めてきたつもりだったが、淡々と綴られたエピローグには思いがけずにほだされ涙こぼれそうになった。鮮やかな幕切れに柝の音がいっそう高く鳴って、深い余韻に包まれた。

PHP文庫 2001.8.15 1刷