
気が向けば、一人気兼ねなく、心おきなく酒を楽しむ。月子さんの通い慣れた居酒屋は、その昔、高校生だった月子さんの国語教師の行きつけの店でもあった。ふとしたきっかけから飲み友達となった元教師と元生徒。会えば楽しく杯を重ねるし、会わなきゃ会わぬで過ぎてゆく。そんな風に始まった居酒屋のお付き合いだったけれど、せんせいと飲む酒の旨さと時間の豊かさ、そのかけがえのなさに、いつしか月子さんは思い至る。超然として揺るがぬように見える、謹厳なせんせいにしても、それは同じなのだった。
月子さんもせんせいも繊細で背筋がスッと伸びている。何より川上弘美の文章がそのような文章なのだ。見慣れた光景から異質な風景を切り出すカメラマンのように、ありふれたことも、思いがけない描き方で新鮮に見せるのだ。居酒屋の場面が楽しい。ごく普通の日本酒の、枝豆や豆腐の美味さが、じわっと伝わってくる。
親しい程に、親しくなければなおさらに節度と品位が必要だろう。月子さんもせんせいも居酒屋の主人も、それを失わない。月子さんとせんせいはお近づきになりたいが、節度と品位を乗り越えるにも節度と品位を捨てられない。作用と反作用。星のフラメンコ。そこから漂うエロティックな空気が、清冽で濃密というような相反する曰く言い難い魅力で作品を支配している。物を食うせんせいの口元に隠れもない老いを見る月子さんはどう思うか。老醜と嫌悪するなど論外、自分もあのような口元になりたいと、発作のような激しい思いに囚われるのだ。凄い。
そんな月子さんに、せんせいはいいこいいこと優しく頭をなでるのだ。川上弘美の優しく厳しく潔いエロティシズム。谷崎潤一郎賞受賞、文句のつけようも無い。
文春文庫 06.5.15 9刷