2006/12/11

硫黄島からの手紙


硫黄島を巡る日米の攻防を描いた2部作の後半。

米の上陸部隊は浜辺の塹壕で迎え撃つべしとする参謀。それは無謀とすり鉢山にトンネル掘りを命じる司令。大和魂と教条主義の将校たちと理知と合理の栗林中将との狭間で翻弄される兵卒達の姿。透徹したカメラが描き出す抗戦準備から壊滅へと至る日本軍の内実。

運命に引き寄せられるように、硫黄島に集まってきた人々のエピソードを積み上げる前半の静かな展開。ここがなんの変哲も無いような流れだが、よく 整理され、わかりやすく、実に良くできている。渡辺栗林、内藤バロン西を差し置いて、二宮召集兵が庶民代表する重責を担い、それにいい芝居で応えている。 特に目の表情がいい。白目の割合が印象的なのだ。

淡々と流れた前半が戦闘機の襲来で破られる。ここからの切り替えが凄い。戦闘機の機銃掃射と爆撃のリアリズム。後は戦闘による修羅場の連続で消耗 戦へと突入していく。鬼気迫る場面がいくつもある。酷い行いも描かれる。愚かな行いも描かれる。酷い行為と崇高な行為が等しく描かれる。それは日本軍でも 米軍もなく、どんな酷い事も平気で行えるのが人間なのだとばかりに描かれていく。

日本人の誰よりも、クリント・イーストウッドは日本人をきちんと描いているように見える。全篇ほぼ日本語だけで成り立っているこの作品を、日本語 のしゃべれない76歳のアメリカ人監督が撮ったというだけで、これは奇跡だ。しかもこんな素直な気持ちで受け止める事ができる作品としてなのだ。有り体に 言えば、トム・クルーズでは到底見いだし得なかった本物のラストサムライの姿が、イーストウッドには明瞭に見えたという事でもある。

冒頭にさる高名な政治家の名前が登場する。それは今の時代に一直線に通じた名前でもあって、歴史の面白さが感じられた。結局のところ、政治とは人 が人を支配することが目的なのであって、国民の幸せなんて事は実に単なる題目にすぎない。要は、支配しようとする力を増大させないようにする事が、選挙権 を持つ人間が最低限果たすべき努めなんではなかろーか。今の時代、いい政治家選ばなきゃだめだとつくづく思うのだ。

原題:Letters from Iwo Jima
製作・監督:クリント・イーストウッド
製作:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・ローレンツ
原案・製作総指揮:ポール・ハギス
脚本:アイリス・ヤマシタ
撮影:トム・スターン
音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーブンス
出演:渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、裕木奈江、中村獅童
2006年アメリカ映画/2時間21分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2006/12/10

カジノ・ロワイヤル


簡潔にしてショッキング。身の引き締まるようなプロローグに洒落れた落ちでタイトルにつなげる。007といえばメインタイトルってくらい、毎回手を替え品を替え楽しませてくれる企画もの、今回もまた、洗練はそのまま、しかしリニューアル感たっぷりに楽しませてくれる。

これ迄とは違うものを見せましょうという作り手の構えがビシビシくる気分の盛り上がりそのままに本編突入。ここから一気に盛 り上がるアクションが凄かった。SF的な小道具に頼った007的荒唐無稽見せ物アクションとは一線を画したリアルな状況設定。そこに体を張った信じられな い殺陣、その破天荒な技の組み立てが連続する凄い展開。もう、驚き呆れ感じ入ってスクリーンに釘付け。近来出色の超絶アクションに大満足。幕開けからテン ポの良さとこの隙のなさ。新生007の気迫にすっかり取り込まれてしまった。

ダニエル・クレイグはここ迄の芝居らしい芝居の無いアクションだけで、向こう見ずで跳ねっ返りな新らしいボンドらしさを主張しているのには感心した。脚本と演出と役者の息がピッタリなのだ。以下、随所に新しさを感じ させる演出で快調に飛ばしていく。要所要所にはシリーズの伝統を踏まえた、ことに、シリーズの方向を決定づけた、殺しの番号、危機一発、ゴールドフィン ガー、サンダーボールへのリスペクト、オマージュと見えるシーンを多発させながらどんどん気分をを盛り上げる。実にどうも、憎い手口で好感がどんどん増していく。

エバ・グリーンも、ノーメイクとメイクとの表情の落差がキャラに深みを加えて、歴代ボンドガールの上位にランキングされるクールビューティー振り。血の涙のル・シッフルも、冷血ななかに哀感が滲む深みのある敵役で印象的。ダニエ ル・クレイグの起用が意外にも効果的だったのは、ジュディ・デンチかっこ良くみえるようになったこと。

現代の国際経済、テロリズム渦巻く世界に、冷戦の 時代のおとし子が復活し、ハードにクールに暴れまくる。プロローグからエピローグ迄、新生007の格好良さをぎっしりと詰め込んで、あらゆる角度から見て大成功の快作。ハイセンス、ハイレベルなリニューアルにカンパイなのである。

原題:Casino Royale
監督:マーティン・キャンベル
製作:バーバラ・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン
脚本:ポール・ハギス、ロバート・ウェイド、ニール・パービス
原作:イアン・フレミング
撮影:フィル・メヒュー
音楽:デビッド・アーノルド
出演:ダニエル・クレイグ、エバ・グリーン、マッツ・ミケルセン、ジェフリー・ライト、ジャンカルロ・ジャンニーニ、ジュディ・デンチ
2006年イギリス=アメリカ=チェコ合作/2時間24分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

プラダを来た悪魔  


プラダを来た悪魔

秀逸なタイトル。その気にさせるキャスティング。確かにね、スプラッターやホラーでは描けない怖さ。メリル・ストリープの悪魔、見たいです。配給会社のポイント。券買いました。

流石です。ミスメリル・ストリープ。期待を裏切らぬ押し出し、風格と存在感。一方造作の大きなファニーフェースのアン・ハサウェイも、若さと人柄の良さで負けてはいない。 この主役二人と周囲の人たちのコスプレだけでそこそこ楽しめる。

お話は意外と他愛なく、新人をいたぶる悪魔というわりに、ステーキや航空券を手配しろだの、発売前のハリーポッターを手に入れてこいだの、その要求がセコいというか、編集やファッションとは何の関係もない雑用ばかりでビジネスというのもおこがましいようなもんだが、メリル・ストリープが言うと、大事な修業の一過程、最もな要求に見えてくる。貫禄ってもんだが、何分にも表面的。ファッションデザインや雑誌編集など、お仕事そのものの魅力や面白さが描かれていたらもっとよかったのに。

監]デビッド・フランケル
[原]ローレン・ワイズバーガー
[衣]パトリシア・フィールド
[出]メリル・ストリープ アン・ハサウェイ エミリー・ブラント
[配給会社] 2006米/FOX
[上映時間] 110分


イルマーレ

引っ越しをした女性が、次の住人宛のメッセージを郵便受けに入れたら、不思議なことにその郵便受けは2年前に通じていた。という韓国映画のリメイ ク。つまらなくは無かったが、今更キアヌ・リーブスとソンドラ・ブロックが出たがるような話とも思えなかった。せっかくの不思議なポスト、ラブレターなん かやり取りするより、競馬や株の情報やり取りして一儲けすりゃ良いのにと気持ちが別方向にそれてしまった。

監督 アレハンドロ・アグレスティ
出演 キアヌ・リーブス サンドラ・ブロック 


トリスタンとイゾルデ

これは思わぬ拾い物だった。
アイルランド、イングランドを舞台に展開する悲恋物語。
ホレ薬を使わない現代的な脚本。荒涼としたアイルランド沿岸部の風景。冷酷無比な王様。説得力ある面構えの侵略者たち。リアルでハードなチャンバラ。シックで品位ある花嫁衣装。若く美しい主役二人の甘美と苦悩に満ちた愛の行方。
見所満載の秀作。

製作年度 2006年
上映時間 125分
監督 ケヴィン・レイノルズ
製作 リドリー・スコット   
出演 ジェームズ・フランコ 、ソフィア・マイルズ


アダム -神の使い 悪魔の子-

遺伝子操作でクローン人間を作る医師が、最愛の息子を亡くした傷心の夫婦に息子の再生を囁く。そうして作り出された子供にあるときから異変が。フランケンシュタインとペットセメタリーを合わせたようなお話。
ロバート・デニーロとレベッカ・ローミン・スティモス。ネームバリューはあるが中身はない。マーティン・スコセッシの作品に出なくなったロバート・デニーロと黒沢作品に出なくなった三船敏郎は、どちらも変な映画によく出てるって点で、よく似ている。

製作年度 2004年
上映時間 102分
監督 ニック・ハム
出演 グレッグ・キニア 、レベッカ・ローミン=ステイモス 、
   ロバート・デ・ニーロ 、キャメロン・ブライト


 デス・ノート

前編では藤原竜也が良かったが、後編は松山ケンイチのもの。しかしお菓子ばかり食べているのを見ていて気持ちが悪くなった。アイドルの女の子が魅 力に乏しいのは問題あり。お話は原作にほぼ忠実な展開らしいが、お話は結局小さくまとまってしまった。もっと倫理、哲学に踏み込んで欲しかった気分。

[監]金子修介
[原]大場つぐみ 小畑健
[出]藤原竜也 松山ケンイチ 戸田恵梨香 片瀬那奈 マギー
  上原さくら 津川雅彦 中村獅童 藤村俊二 鹿賀丈史

2006/11/19

トゥモロー・ワールド


西暦2027年。人類に子供が生まれなくなって18年。世界はファシズムとテロルと絶望に覆われていた。

「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」で評判を呼んだアルフォンソ・キュアロン監督がJ・K・ローリングスの「ハリー」を断って挑ん だP・D・ジェイムズ「人類の子供たち」の映画化。この作品に関わったスタッフ・キャストの仕事振りの凄さ、素晴らしさ。

60年代以降、SF映画に描かれた近未来は終末戦争後の荒廃した世界が主流で、そこにチャールトン・ヘストンからケビン・コスナー、シュワちゃん へと至るスター達が人類の栄光を回復すべくハードな闘争を繰り広げたもんなのだった。90年代には核戦争から環境破壊へと終末の光景も変化した。さらに、 人類の主体性放棄、テクノロジー依存という新たな病理を、高度なCGで斬新にイメージ化した「マトリックス」3部作も生まれた。

「マトリクス」の世界観は示唆に富み、問題の提示と解決法も最高の映像技術に支えられて力強く、大いなる説得力を持つ傑作だった。そう言う人はほ とんどいないが。それはともかく、その「マトリクス」さえ人類の未来を自明のこととしている点で、脳天気とそしられても仕方がない。 誰から?。もちろんトゥモロー・ワールドから。

子供の生まれない世界とは既にメタファーですらなく、今やエイズに対して世界が直面している問題だ。そこに真っ向から切り込み、人間と社会の多面 性を多彩に描きながら展開するのは、お宝争奪のスリリングな追っかけであり、次から次へと襲いかかる苦難をスリルとサスペンス漲ったアクションで乗り切っ ていく冒険譚。

沈鬱なロンドン市街。訳もわからず不条理な状況に巻き込まれた中年男の戸惑い。クライブ・オーウェンの煤けて草臥れきった様子が作品全体のトーン を見事に統一する。クライブ・オーウェンに寄り添うように、彼の見るものを観客にも提示していくカメラ。市街地も田園も荒廃し人々には絶望だけしか残され ていない。全てが色あせ鬱々とした作品世界に、こちらの感覚も浸食されていくような気持ちにさせるカメラの表現力。その陰々滅々に一筋の光明が灯り、主人 公の地獄巡りが本格化していく。いくつものエピソードは展開も波乱に富んでいるが、中でもマイケル・ケインの演技は深みと豊かな陰影を湛えていて胸に迫っ た。

地獄巡りの頂点として主人公が遭遇するのが、クライマックス8分のワンショットシーンだ。この長回しは真に素晴らしい。長回しは、「史上最大の作 戦」の空撮も有名だが、迫真的でバーチャルリアルに恐ろしさを感じさせる点において過去に例が無い。近似値はプライベートライアンのベニスビーチ上陸シー ンだがスピルバーグとは方法論が違う。迫力と醍醐味においてエポックを画している。比べるものがあるとすればポチョムキンの階段シーン以外にない。

こうした表現の素晴らしさ全てを、人類の未来への真摯な祈りへと奉仕させ、優れた娯楽作品へと結実させている。その志の高さと面白さ。今年度断トツの1等賞だ。

原題:Children of Men
監督:アルフォンソ・キュアロン
脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン
撮影:エマニュエル・ルベッキ
出演:クライブ・オーウェン、ジュリアン・ムーア、マイケル・ケ  イン、キウェイル・イジョフォー、クレア=ホープ・アシティ
2006年イギリス、アメリカ合作/1時間49分
配給:東宝東和

カポーティ


冷血を読んだのははるか昔だ。細かなことは覚えていないが、強烈な読書体験だったことはしっかり記憶に残っている。怖さと同時に、そのスタイルが格好良かったことも。

その後、冷血をしのぐような事件は枚挙にいとまがない。そうした時代だ。「冷血」が無ければ生まれなかっただろう作品もその後は多いが、冷血を凌ぐような作品はない。文学上の、時代という意味でもエポックを画した冷血とは、どのようにして書かれたか。


フィリップ・シーモア・ホフマンが製作者だったとはエンドクレジットを見るまで知らなかった。嫌みな程のカポーティな演技も、他からのオファーで なく自作自演だったかと知ればシーモア・ホフマンの自信、野心の程も偲ばれる。しかし傲慢だろうと嫌味だろうと、とにかく自分で作ってアカデミー主演男優 賞を取っちまったんだから凄い。何より素晴らしい作品だった。実に大したもんなのである。

で、アカデミー賞を始め各主演男優賞総なめではあるが、特徴の多いキャラで演技的にはやりやすかったのではなかろうか。むしろ対話がメインの地味 な展開を秩序よくまとめた脚本と、それを冴えた絵作りで見せきった演出の安定感が印象的。聞けば初監督作品だという。そうとは思えぬ風格が見事。カンザス の冬枯れの大地を望遠するカメラの美しさから音楽、衣装、美術と画面の隅々に至るまで、入念な神経が行き届き刺激のレベルが高い。

シーモア・ホフマン入魂の粘着質なカポーティーが硬質な空気の中を徘徊する。その気色の悪さを魅力に変えたのはキャサリン・キーナーの功績。優しさと聡明さに溢れた女性を惚れ惚れするようなクールさで演じ魅力的だった。

監督:ベネット・ミラー
出演フィリップ・シーモア・ホフマン 、キャサリン・キーナー
上映時間 114分

ウインター・ソング

金城武が雪の中で泣いたり走ったりするウエットな予告編を何度も見せられたが興味の他。今回時間の都合から他の選択肢が 無く、つい見たのだったが、いや、実にどーも。金城君には申し訳ないが、こんなダイナミックなミュージカルシーンが炸裂する面白作品だったとは思っても見なかった。

北京で将来の映画監督と歌手を夢見る恋人同士。苦学をしながら愛を育むが辛い別れも待っていた。十年後、映画俳優となった二人はミュージカル映画の共演者として上海の撮影所に再会するが。

映画の撮影に重ねて過去と現在がフラッシュバックし、愛の行方が定められる映画内映画。これをミュージカルでやるもんだから。始めは大いにとまどう。中国語のミュージカルナンバーは、聞いてて何だか落ち着きが悪いのだ。これって差別意識、というより単に聞き慣れない故の違和感。

ダンス・ナンバーがかっこいい。カットの刻みすぎと決めのポーズの多用って編集テクニックで逃げてるきらいはあるが、曲そのもの、踊りそのものに高揚感があってとても気持ちいいのだ。中国語のミュージカルナンバーも慣れてしまえば自然に入ってくる。

理想と現実の狭間で流されていく愛の行方、それ自体に新味はないが描き方には隙が無い。三角関係の一角を占めるジャッキー・チュンの素晴らしいボーカルには痺れたし、クライマックスを盛り上げる空中ブランコシーンの格好良さには映画の醍醐味が溢れている。金城武の甘いマスクも効果的だったし、女優さんも良かった。キャスティングのバランスもストーリー展開も落ちも文句ない。

原題も邦題も口にするにはちょいと恥ずかしいが、良いもん見せて貰った。「オペラ座の怪人」などよりはるかに洗練された演出で見せる面白作品。


[題]PERHAPS LOVE 如果・愛
[監][製]ピーター・チャン
[総]ルイス・ペイジほか
[製]アンドレ・モーガンほか
[脚]オウブレイ・ラムほか
[撮]ピーター・パウ
[出]金城武 ジョウ・シュン ジャッキー・チュン チ・ジニ

トンマッコルへようこそ

朝鮮戦争のさなか、山奥の村にアメリカ空軍機が不時着。時を同じくして人民軍兵士と韓国軍兵士が吸い寄せられるように集 まってくる。牧歌的な村に一触即発の緊張が一気に高まるが、村人の伝統と秩序に則った暮らしは揺るがない。対立する兵士達の険しかった表情も次第に穏やか さを取り戻す頃、戦雲はトンマッコルの上空に及んでくる。

南北分断によってもたらされる悲劇をドラマティックに描き、統一への強い思いを訴えた「シュリ」や「J・S・A」から5年。「トンマッコルヘようこそ」は同じテーマをファンタジックに描くという、全く異なるアプローチで見せている。流れた時間がもたらした意識の成熟。

南北双方の兵士の顔が魅力的。朝鮮文化を象徴するトンマッコルの美しさと暮らしぶりも説得力がある。見所だってたっぷりある。がしかし、何かにつ けてべたなのである。韓国映画にべただと文句を言うのは、刺身が生だと言いつのるに等しい難癖だと承知はしているが、べたべたなのだ。

べたべたであるうえに、肝心なところはすべからくあざといのである。これを様式美と割り切れればいいが、当方はディテイルの統一リアリティの充実に対する欲求が強く、そこが充たされぬことには気持ちも納まらない難儀な性分なのである。
国家統一という大義名分をファンタジーとして描いた意欲作であり、制作者達の誇りと意気込みも十分感じられるが、スローモーションを多用した自己陶酔気味な映像も少なくない2時間12分。観客の生理から言えば、いかにも長い。

英題:Welcome to Dongmakgol
監督・脚本:パク・クァンヒョン
脚本:チャン・ジン、キム・ジュン
音楽:久石譲
撮影:チェ・サンホ
出演:シン・ハギュン、チョン・ジェヨン、カン・ヘジョン、
   イム・ハリョン、ソ・ジェギョン、リュ・ドックァン
2005年韓国映画/2時間12分

2006/11/05

父親たちの星条旗


激烈を極めた硫黄島上陸。艦砲射撃で形が変わってしまったというすり鉢山の攻防。山頂に星条旗を掲げた兵士達の写真から政治的に生みだされたヒーロー達。彼らがかり出された新たな戦場と、思いも寄らぬ闘いの日々。

「ミリオンダラーベイビー」の後、イーストウッドが硫黄島を撮るとの記事を目にした時、戦争映画、しかも硫黄島という素材は年齢、体力的な限界を 超えているだろうと危うく思った。そもそも、ワーナーはイーストウッド作品の廉価DVDをやたらリリースするなど、以前から冷たいし、金の工面からして厳 しいのではないかと半信半疑だった。

しかし、そんな勘ぐりとは別の次元にこの作品は出来上がっている。パワフルで苛烈な戦闘シーンは「プライベート・ライアン」以降のもの。「パール ハーバー」以降のリアルを極めたCG映像。クリント・イーストウッドがこれほどCGを駆使した、大がかりな作品に挑むことを一体誰が想像しただろう。

イーストウッドをこの作品に駆り立てものの一つに、好戦的なブッシュの政治姿勢に対する危惧や懸念を見て取ることは容易だ。その意味では、ブッシュには、この作品の制作者として名前がクレジットされる資格はありそうだ。だが、だとしてもそれは作品のほんの一部にすぎない。

硫黄島とそこから生まれた悲劇を追うカメラから、反戦メッセージをくみ取るのは容易だが、あらゆる主義主張、善悪の概念を越えて、クリント・イー ストウッドの眼差しは深い。だから、例えば官僚への批判はあっても安易な断罪はない。全てを観てきた男の諦観か、いや、その曇らぬ眼差しは、あるいは神の 視点に最も近づいた人間のものかもしれない。長生きしなければ見えてこないものは確かにあるのだ。

無駄のない語り口。行き届いて隙のない絵造りで戦争を描き、人間とは何かをジワリと浮かび上がらせる。世界の有り様をあるがままに見つめ、あるが ままに描き出すイーストウッドの高貴なる魂。誰も届かぬ高みで、誰よりもハードボイルドな精神の輝きを示すイーストウッドという驚異。

原題:Flags of Our Fathers
監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
製作:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・ローレンツ
脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイレス・Jr.
原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ
撮影:トム・スターン
出演:ライアン・フィリップ、アダム・ビーチ、ジェシー・ブラッ   ドフォード、バリー・ペッパー、ジェイミー・ベル
2006年アメリカ映画/2時間12分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2006/10/30

木更津キャッツアイ ワールド・シリーズ

主人公が余命半年というところから始まった「木更津キャッツアイ」。創意と閃きに満ちたシリーズは視聴率こそ低かったが、コアなファンを獲得し、大日方文世、古田新太、桜井翔、阿部サダヲ、気志団などの知名度を一気に高めた。TV終了後、映画「日本シリーズ」が制作されたが、これは狂騒的なギャグが空回りするばかりの悪夢のような作品だった。あれから3年、ワールドシリーズと銘打った完結編ではあるが、「日本シリーズ」 の時のような痛い目には遭いたくないし、今更感ってのもある。正直、気乗りはしないが、今までの付き合いからスルーもできず、初日を逃したら行けなくなるだろうやっぱ。ってことで硫黄島を後回しにした。

ぶっさんの死後、別々の道を歩み始めたキャッツ達。市役所の役人となって今は一人木更津に残ったバンビに、ある日、天からの啓示が訪れる。「それをつくれば彼がやってくる」。その声に導かれ、バンビはぶっさんの3回忌に合わせてキャッツを招集する。

野球で結ばれた男の甦りとなれば当然「フィールド・オブ・ドリームス」だろう。だれも文句はいえなかろう、という開き直りのような設定だが、クドカンはキャッツの誰も肝心の「フィールド・オブ・ドリームス」を観たことがないという変化球でコーナーを突いてくる。「日本シリーズ」的悪ふざけは影を潜め、変化球もまあコントロールされている。

夢も希望も傲慢も挫折も不安も怒りも、理解し合える仲間はあっても、乗り越えるのは自分だ。プラスとマイナスはいつもひとかたまりでやってくる。分裂と再会を通して成長していくキャッツの姿が切ない。同じものを観ているようで微妙にずれている人間の可笑しさ哀しさを描くクドカンの目は優しい。優しいが含羞の人でもあるからウエットに盛り上げてもことごとくギャグでひっくり返す。泣かされて笑わされて、よく揺さぶられた。シリーズの終了からこれまでに流れた時間が、登場人物の変化としてリアルに現れている。特に、キャッツの変化は成長その もの青春そのものだから、彼らの「ばいばいを言う」というテーマが、例えば塚本高史の迫真の演技から切実さと説得力とをもって立ち上がってくる。 そして人生は続くのだ。役者がみんな素晴らしい。「ワールドシリーズ」はTVシリーズを楽しみ、流れる時間を共有した者には涙なしには観られない作品になっている。

監督:金子文紀
脚本:宮藤官九郎
プロデューサー:磯山晶
音楽:仲西匡
出演:岡田准一、櫻井翔、佐藤隆太、酒井若菜、塚本高史、岡田義徳、山口智充 阿部サダヲ
2006年日本映画/2時間11分
配給:アスミック・エース

2006/10/17

レディー・イン・ザ・ウォーター


「シックスセンス」の幽霊、「アンブレイカブル」の超人、「サイン」の宇宙人、「ビレッジ」のモンスター。シャマランの作品はすべからく怪異譚だ。それも ゲテモノ系の。ゲテモノベースに家族愛をブレンドしたスリラー仕立て。ピュアでイノセントな存在を保護する結界が破られ、悪意が浸食してくるというパ ターンを、サプライズエンディングで締めくくるのが基本的スタイルといえる。

「レディー・イン・ザ・ウォーター」もこの流れの上にあるが、シャマランは一番の売りであるサプライズエンディングを放棄し、冒頭のナレーション で物語の前提を全て説明するという思い切った作戦に出た。言ってみれば、語り口を倒叙形式に変えて勝負してみました。といったところだろうか。

もっとも、その昔、人類は水の精霊と協調しあい、調和のとれた世界で幸せに暮らしていましたと言われて、納得や共感求められているようなのだが無理だ。そのお話にサプ ライズはあっても、合理的に物語を閉じる力は無い。だが、シャマランは躊躇も遠慮もなく、水の精霊と守護者達の物語を強引に押しつけてくる。そこには疑問 も異論も反論も入り込む余地はないのである。

シャマランが我が子に語り聴かせた自作のおとぎ話がベースになったストーリーなのだそうだが、三つ四つの幼子ならいざ知らず、金を払った観客相手 にそんな話で啓蒙を図ろうとしているのはどうしたこと。一体人のこと何だと思ってんだろうってことなのである。観客をバカにするにも程があるわけだが、本人にはそのような気はさらさらなさそうだ。どちらかといえば、自我を肥大 化させた新興宗教の教祖が、信者に教義を授けているというのがより近い。
監督本人が結界突破し、トンデモ系世界に大きく踏み出してしまったようだ。

今にして思えば、「シックス・センス」という見事な作品が生まれたのは奇跡としか言いようがない。あの作品に顕れていた謙虚さや真摯な思いは、今のシャマランからはもう感じられないのは残念だ。成功によって人がスポイルされるのは、決して珍しくないのだけど。

原題:Lady in the Water
監督・脚本・出演:M・ナイト・シャマラン
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード、ジェフリー・ライト、メアリー・ベス・ハート
2006年アメリカ映画/1時間50分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2006/10/15

16ブロック


ニューヨーク市警のはみ出し落ちこぼれアル中ブルース・ウイルス刑事、夜勤明けの開放感に浸る間もなく、ちょいとこの 16ブロック先の裁判所まで、チンピラ一人を連れけと命じられ、嫌々ながらもほんの片手間仕事と、チンピラを乗せて発車する。朝の渋滞、軽口を叩き続ける チンピラ、半端な仕事、全てにうんざりしたアル中刑事の倦怠感が謎の襲撃にいきなり破られ、16区画の街路に激烈なサバイバルレースが繰り広げられてい く。

いやー上出来、大満足、素晴らしい。
生きる目的を見失ったアル中と人生の半分を刑務所で過ごしたチンピラの二人組が、NYPDを向こうに回しての敵中突破のクライム・アクションなロードムービー。
この二人が顔を合わせた時に、チンピラが刑事にする質問。
「大嵐の夜、車で通りかかったバス停に人が3人立っていた。親友と祖母と理想の女。車にはあと一人乗せることができる。その時あんただったらどうする」

全身から発散する黄昏感が真に迫ったブルース・ウイルスがいい。
しゃべり続けるチンピラを演じた黒人青年はラッパーだそうだが、道理で声のトーンやしゃべり方に独特な味があり、しゃべりが神経に障るような状況もそうは感じさせない魅力で演じて、これは実にナイスなキャスティング。

朝のマンハッタンという思いっきり日常的な状況に、警官対警官というプロ同士の腕比べ知恵比べをスピーディーに、かつ意外性十分に描いた脚本の巧さ。多彩なバリエーションで繰り広げたガンプレイやカーアクションの演出も流石の職人技。

バス停3人の選択をどうするか、ブルース・ウイルスの憎い答えが二人の道中を気持ちよく締めくくる。 

監督のリチャード・ドナーはオーメン、 スーパーマン、グーニーズ、リーサル・ウェポンと長期安定のキャリアだが、1930年生まれの76歳ということになる。実に、娯楽映画の王道を貫く内容と スタイルの素晴らしさ。エネルギーとパワーに溢れ、年齢を感じさせない大いなる仕事振りにも感動した。


原題:16 Blocks
監督:リチャード・ドナー
脚本:リチャード・ウェンク
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:クラウス・バデルト
出演:ブルース・ウィリス、モス・デフ、デビッド・モース、
   ジェナ・スターン
2006年アメリカ映画/1時間41分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

2006/10/14

ブラック・ダリア

カメラは移動するが、デ・パルマ的なトリッキーさは影をひそめ、随分抑制されている。それは内容についてもいえること で、ミステリーとしても、人間ドラマとしても怖さはまったく感じられない。原作を大切に扱った脚本ではあるが、本質的なところでエルロイのエネルギー、狂 気、怒り、不安、希望などとクロスすることはなかった。

原作を抜きにしても、登場人物達が抱え込んだ物語や秘密は過剰で、彼らの行動と動機とストーリーとの関わり方が重い。 というか、どの人物の行動もきちんと理に落ち過ぎ、キャラクターは人間的な奥行きや膨らみを欠いている。

スカーレット・ヨハンソンは美しいがただそれだけ。それだけで充分という見方もあるが、この作品については全く不十分。ヒラリー・スワンクの役所 は脚本段階での掘り下げが足りないが、それ以上に成金のゴージャス感にも乏しく、演技的にはともかくビジュアルとしてミスキャストだろう。ジョシュ・ハー トネットも良くやっているが終盤に成る程説得力は乏しかった。

なにより、ブラックダリアというシンボリックな死体をメインに据えながら、「ブラックダリア」に囚われていく男達の狂気や妄執に説得力を与えられ なかったことは致命的だ。ミステリを越えたミステリといえる原作を、デ・パルマはごく普通のミステリー映画にしてみせただけともいえる。

原題:The Black Dahlia
監督:ブライアン・デ・パルマ
製作:アート・リンソン
原作:ジェームズ・エルロイ
脚色:ジョシュ・フリードマン
撮影:ビルモス・ジグモンド
音楽:マーク・アイシャム
出演:ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンク、ミア・カーシュナー
2006年アメリカ映画/2時間1分
配給:東宝東和

2006/10/07

フラガール



昭和40年。やがて閉山が避けられない炭鉱町の未来を賭けて、温泉利用の画期的なリゾート事業、東北のぼた山をハワイに変える「常磐ハワイアンセンター」 計画が動き出す。そこで、フラダンスチーム育成のため東京からプロの先生が招聘される。ところがこの先生、田舎を嫌悪し、さげすみながらビールを飲むより他 に能がない。一方迎えるダンサー候補生達も、フラのフの字はおろか、ダンスのダの字さえまるで判らない身の程知らずばかりなのだ。
貧しいながらも鉱山の誇りと共に暮らしてきた人々にも、時代の波は否応なしに押し寄せてくる。世代も違えば、立場も考えも違う。旧来の生活を守 り抜こうとする人。坐して死を待つより自分たちで前に出て行こうとする人。町を二分する不穏な空気の中、明日を夢見る少女達のエネルギーが、彼女達自身を 動かし始める。

駄目コーチの松雪泰子、ダンサーの蒼井優。この二人はどちらも主演女優賞として顕彰されるに必要十分な実力と魅力で輝いている。炭鉱夫の豊川悦 司、マネージャーの岸部一徳、ダンサーの池津祥子、母親の富司純子。この4人は誰もが助演女優、男優賞に値する素晴らしい存在感を示している。ダンサーの 静ちゃんも忘れられない存在感で新人賞確実。それくらい役者達が輝いている。ひらめきのあるキャスティングなのだ。

それも脚本の素晴らしさあればこそだろう。歴史的社会的背景をしっかり押さえ、その上に駄目人間の再生と若者の成長を丁寧に描き、普遍性ある テーマを、誰もが共感できる感動へと繋げている。キャラクターの造形やギャグにあざとさがなく、エピソードの重ね方にも無理がない。素直にスクリーンに集中 できるのだ。意外性ある展開も、伏線も気が利いているし、俳優達の全てが皆もうけ役に見えるという奇跡。大した脚本だ。

がんばれベアーズ、プリティーリーグ、クールランニングなどの駄目コーチ再生のスポ根ジャンル映画としての定型を、日本の炭鉱という特殊な状況へ とうまくローカライズしている。リトルダンサーの影響も見逃せないが、真似とかパクリとかではなく、過去の優れた作品の精神が気持ちよく継承されている点 において、映画的教養と知性と人間味に溢れた、素晴らしい演出を讃えたい。

監督:李相日(り・さんいる)
脚本:李相日、羽原大介
撮影:山本英夫
美術:種田陽平
音楽:ジェイク・シマブクロ
出演:松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、山崎静代、岸部一徳、富司純子、池津祥子
2006年日本映画/2時間
配給:シネカノン

2006/10/03

東洲しゃらくさし


平成九年に書き下ろされた松井今朝子のデビュー作。
題名から明らかなように写楽もの。寛永年間に忽然と登場し、短期間に幾多の傑作を残して忽然と消えた謎の絵師。写楽の謎を求めてはいくつかの作品が書かれている。それらは写楽の正体について、魅力的な答えの一つとして了解されるものの、謎は依然謎のまま生き続けている。先人、先達が寄ってたかって発掘し尽くした感のある写楽。そのような写楽を、あえてデビュー作に持ってこようというは一体どんな了見かと思うが、松井今朝子という人がいかに性根の座った、良い根性の持ち主であるかは、一読すれば良く判る。

大阪の狂言作者並木五兵衛が江戸に下った時期と、写楽の登場とが期を一にしているという史実から広げた物語は、上方と江戸の文化的相違を軸に、歌舞伎にまつわる人々の様々な生業、営みをもって写楽とその時代を説き起こし、返す刀で写楽の謎を描き切る。といっても、写楽の謎を解き明かすということではなく、当時の状況に納まる写楽像はこんな風ではなかったかとするその造形にも説得力がある。
客観に徹した作者の態度が心地よい。安易な感傷に煩わされることなく切れのいい叙情が味わえる。歌舞伎の制作、劇評に長く携わっていたという作者の分厚い知識教養も、物語の流れに自然に溶け込んで、単なる蘊蓄の辛さもない。

新人のデビュー作と感じさせぬ、悠揚迫らぬ筆致で描かれた写楽の時代。感傷に訴えようとはしない作者だから、こちらも作中人物への感情移入や思い入れもなく読み進めてきたつもりだったが、淡々と綴られたエピローグには思いがけずにほだされ涙こぼれそうになった。鮮やかな幕切れに柝の音がいっそう高く鳴って、深い余韻に包まれた。

PHP文庫 2001.8.15 1刷

2006/10/02

百番目の男 ジャック・カーリィ


05年このミス6位にランキングされたサイコサスペンスはバカミスと評されることも少なくなかった。
サイコはともかく、タイトルにも惹かれなきゃ著者も知らないしバカミスにも興味はないので読む気もなかったが、よく見れば表紙がクールだ。それがどうも気になって、この本は完全にジャケ買い。

マッチョな筋肉の完璧なボディーには染みひとつ傷ひとつなかったが、首もなかった。美しい死体に残された謎のメッセージ。連続する猟奇殺人の捜査に投入されたのは、イカレた犯罪専門部署の冷や飯食いコンビ。99人が同じこと言っても別のこと考える百番目の男とその相棒。

物事には素直な気持ちで当たらなければいけない。知った気になっていつの間にか傲慢不遜な判断をしてしまう。それは、結局自分のマイナスにしかならない。そういうことを改めて感じさせられる程に、「百番目の男」は面白かった。主人公の相棒以外はほぼまともな人間が出てこないという屈折。しかしふざけた会話にも陰鬱な描写にもどこか若さと清新さ漂う独特のきわどい魅力。

それにつけても、「羊たちの沈黙」の凄さがこの作品からも改めて感じられるのは、この作品もレクターの影響が色濃いが、これに限らず、他にもレクターの影響を強く感じされる作品がいくつもあることだ。レクターとクラリス・スターリングは、今や、ホームズ、ルパン、マーロウに比肩する影響力をもった歴史的キャラクターとして、地歩を固めているようだ。

この人いいなぁ、次も是非読みたい。

文春文庫 771円 05.12.1 2刷

溺レる 川上弘美


女性の1人称で綴られた短編が正味200ページに満たない文庫に納められている。道行き、駆落ち、同棲、SM、性欲、3p、心中、不死。八つの短編はどれも一貫して性を切り口に生を描いている。

日常は日常であり日常ではない。鋭利な感覚を緩さで語る繊細で剛胆な筆遣い。品の良さと伸びのあるリズム感で巧妙な語り口。文章は優しく哀しくそして軽い。

八編の主人公達は世俗の価値観や意味に縛られていない。それよりもっと別な大切なものに囚われている。だから、いくらでも重苦しくなることを、作者は軽さで顕していく。

軽さは優しさ哀しさを浮かび上がらせるが、同時に怖さももれなくついてくるのだ。その怖さは、こちらの世知の浅はかさや、世俗の垢の付き具合に気づかせてもくれる怖さであり、男にとっては、紛れもない女の怖さでもある。

2003年 7月25日 5刷
文春文庫

センセイの鞄 川上弘美


気が向けば、一人気兼ねなく、心おきなく酒を楽しむ。月子さんの通い慣れた居酒屋は、その昔、高校生だった月子さんの国語教師の行きつけの店でもあった。ふとしたきっかけから飲み友達となった元教師と元生徒。会えば楽しく杯を重ねるし、会わなきゃ会わぬで過ぎてゆく。そんな風に始まった居酒屋のお付き合いだったけれど、せんせいと飲む酒の旨さと時間の豊かさ、そのかけがえのなさに、いつしか月子さんは思い至る。超然として揺るがぬように見える、謹厳なせんせいにしても、それは同じなのだった。

月子さんもせんせいも繊細で背筋がスッと伸びている。何より川上弘美の文章がそのような文章なのだ。見慣れた光景から異質な風景を切り出すカメラマンのように、ありふれたことも、思いがけない描き方で新鮮に見せるのだ。居酒屋の場面が楽しい。ごく普通の日本酒の、枝豆や豆腐の美味さが、じわっと伝わってくる。

親しい程に、親しくなければなおさらに節度と品位が必要だろう。月子さんもせんせいも居酒屋の主人も、それを失わない。月子さんとせんせいはお近づきになりたいが、節度と品位を乗り越えるにも節度と品位を捨てられない。作用と反作用。星のフラメンコ。そこから漂うエロティックな空気が、清冽で濃密というような相反する曰く言い難い魅力で作品を支配している。物を食うせんせいの口元に隠れもない老いを見る月子さんはどう思うか。老醜と嫌悪するなど論外、自分もあのような口元になりたいと、発作のような激しい思いに囚われるのだ。凄い。
そんな月子さんに、せんせいはいいこいいこと優しく頭をなでるのだ。川上弘美の優しく厳しく潔いエロティシズム。谷崎潤一郎賞受賞、文句のつけようも無い。

文春文庫 06.5.15 9刷

国家の品格 藤原正彦

世界的に見て、先進諸国は軒並み社会的荒廃を招いている。それは西欧的合理主義、理論的思考の限界に他ならないのじゃないか。戦後、日本も合理主義、市場原理で突っ走ってきたが、論理的な整合など前提次第でどのようにも変わるものだし、民主主義が結果の正しさなど保証するわけもない。国際社会に対応できる人材育成のために小学校から英語を教えようという、これも立派な理屈だが、果たしてそんなことから世界に通用する国際人が育てられるものだろうか。理屈に頼っては躾だってままならないというものだ。

ではどうすれば良いか。形を尊び豊かな情緒を育んできた日本の文化伝統の中にその答えはある。日本の古来の価値観、世界観の復権こそ、いまや国を挙げて取り組むべき課題ではないか、より具体的には新渡戸稲造の言う「武士道」の精神に学ぶべきはある。もとより、日本人は敗者への共感、弱者へのいたわり、惻隠の情を以て世に対してきた。そうした行き方を取り戻すことが、国家としての品格をより高めていくことに通じるのである。

といった論が、著者が数学者として内外で生活した経験の中から、豊富な事例、エピソードを交えながら展開される。平易な語り口に適度なユーモア。口当たりが良くて分かりやすい。面白くて説得力があるしベストセラーも当然だと思った。

著者の主張は尤もだと思う。異論も反論も特にない。ましてや、もう何十年にわたり「卑しい街を行く高貴な騎士」だと作者が認ずる探偵をアイドルとしてきた身であるから、武士道だろうが騎士道だろうがさしたる抵抗はないのだが、私立探偵が騎士気取りで街をほっつき歩く分にはまだしも、国家のあり方を論ずるのに武士道持ってこられてもなぁーって気は、どうしてもするのだった。

奥付きの著者紹介に、新田次郎と藤原ていの次男とあって、これにはびっくりした。

新潮新書 06.4.10 23刷

東京タワー   リリー・フランキー


東京タワー リリー・フランキー
親子、家族の有り様も時代と共に変化する。尊属殺人に恐れおののいたのも今は昔。父性も母性も昭和のノスタルジーかと思えるような幼児虐待の報道も、こう日常茶飯ではニュースバリューも下落する。

こんな時代だから、名前を書けば死んでしまうノートブックの秘密を巡る物語に引き込まれる事もあるし、一方では癒しや感動を求める気持ちも強くある。そんな次第で、感動必至、号泣必至と言われると手が出る。

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン リリー・フランキー
このタイトル、副題、著者名の字面から受ける感じからは、ちょっと軟派系の切なく情けないような話かとの予断があった。はじめのうちにこそ、そんな雰囲気もあったが、どうしてどうして、これは北九州の大先輩「花と竜」の直系の子孫とも言うべき無頼の精神に貫かれた、堂々たる硬派の物語だったのが意外だった。

九州発、花と竜、青春の門の流れを汲む青春サクセスストーリーとしても良くできている。語りも巧いしタイトルが憎い。

何より、この本の大成功によって、著者自身がマイナーから一挙に大ブレークしたこと。本に描かれた結末にさらなる増刷が加わり、現在進行形のライブ感溢れるジャパニーズドリームと化したのは、作者の意図を遙かに超えて、この作品をきらびやかに変質させているようだ。

非道、行ずべからず 松井今朝子


文化六年巳歳の元日、年頭恒例の舞台も無事済んだその夜、江戸随一の芝居小屋中村座は、隣町から押し寄せてきた火の手に焼け落ちた。翌朝、焼け跡に立った太夫元十一代目中村勘三郎が今後の方策を思案する間もなく、焼け残りの行李から男の他殺体が発見される。

北町同心と同心見習いの二人、ベテランと新人コンビが挑む江戸最大の芝居小屋に繰り広げられる連続殺人事件。今に続く歌舞伎の、江戸時代の名人上手はどんな舞台を作っていたのか、芝居小屋はどう運営されていたのかなど、芸道ものバックステージ物としての興味深い蘊蓄、エピソードをミステリの流れに巧く溶け込ませている。

非道、行ずべからずとは、斯道を全うしようと思うなら、他の事しておっつくもんじゃないよ、ってことらしい。芸人たるもの芸に生きるのが本分。人の道より芸の道ってのは当然のこと。という世界の面白さが、多彩な、味わい深いキャラの魅力とともに描き込まれて、深みと奥行き、懐の深さを感じさせる面白さ。

作者は京都の出身で長く松竹で歌舞伎の興行に携わっていたらしい。ベタつかないけど優しさを感じさせる人間の描き方がクール。きりっとしてメリハリも効いた文章も魅力的だ。直木賞候補作ということだが、落選というより、直木賞とれる程つまらなくないというところかな。全作読む。

05年4月25日 1刷  集英社文庫 838円

2006/09/18

天使と罪の街 マイクル・コナリー

コナリーは良い作家で技巧を尽くすが、それほど巧い作家ではないと思っている。どんでん返しもディーバーが華麗ならコナリーは泥臭い。技巧的だがどこかアマチュアっぽい。しかし、それは持ち味であって決して短所ではない。セックスが下手だからってなんだてぇんだ、熱いハートこそがボッシュの生命線なんだし。

だけど、前作でバッジの無いボッシュは、敏腕プロデューサーのオフィスで自分をみすぼらしく感じたり、元同僚の妻への疑念から恥ずべき盗撮を行うなどの情けなさ。危惧すべき兆候が明らかだった。こんなボッシュは嫌だと思いながら読み終えた。長年に渡って共感を深め、無条件に支持してきたから、辛さも寂しさも覚えた。

「天使と罪の街」は、ポエット、マッケイレブ、ボッシュを一挙にやっつけちまおうという魂胆の野心作。マッケイレブが嗅ぎ付けたポエットの痕跡を、ボッシュが追うというプロットを、一人称と三人称の視点移動で構成していくという凝った作り。お馴染みのキャラクターの活躍で上巻過ぎれば面白さ更に加速し、後半はぐいぐい読ませる。コナリー、流石なのだ。

でもね、読んでる時は楽しくても、読み終わった後に感じるのは、どちらかと言えば面白さより。面白くなさ加減なのだ。失望と言う感じが近い。こうなるとコナリー好みの楽屋落ち的オールスターキャストも、却って子供っぽく感じてしまう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いか。それはともかく、

「ポエット」はとても良くできた作品だったが、今回は犯人からしてとても同一とは思えない動きの悪さ。FBIもポエットも、何をどうしたいのか分からないように見える。ポエットの狙いも行動もよく分からないまま、何故か自分のことで精一杯のボッシュだけが常に1歩先を読んでリードする。

ボッシュは流れる時間の中にいる。チャンドラーのリアリズムを受け継いだ変化するキャラクターだ。警官を取り締まる警官は一体誰が取り締まるんだと、内務監査を目の敵にするパブリック・アイ。そのセンスがボッシュの魅力だ。そんな男が警察を辞め、一体どんなプライベート・アイになったものか。それがシリーズ後半の肝。だと思っていたが、コナリーはあっさりとロス市警に復帰させる。大変結構だ。今時、ボッシュの望むような社会的使命を果たすに、私立探偵はあまりに非力だ。警官に戻るのは必然性がある。警官であり続けるのは二村英爾もしかり。それがチャンドラーの言うリアリズムに合致するってもんだ。

ただ、前作同様このボッシュには首をかしげる。マイクル・コナリー焼きがまわったとは思いたくないが、次作は納得できる展開を是非、迷える読者に与えて欲しいと願っている。

講談社文庫 上771円 下648円 06.8.11 1刷  

ユナイテッド93


2001年9月11日朝8:46、世界貿易センター北棟にAA11便が突入。9:03にはUA175便が南棟を直撃した。墓石と化した摩天楼を映すCNNに世界が震撼していた頃、9:37AA77便がペンタゴンに激突。4機目は依然飛行中だった。

管制から逸脱する不審機が複数のハイジャックへと発展し、更にあり得ない破壊行為へとエスカレートしていく混乱に、極限の対応決断を迫られる航空管制官達、軍関係者等の闘い。離陸から墜落までのUA93便の機内で繰り広げられたであろう闘いがタイトに描かれる。

ハイジャックされた4機の中、唯一、標的を捉え得ずペンシルバニア州ジャクソンビル郊外に墜落したUA93便が、サンフランシスコに向けてニューヨークを飛び立ったのはAA11便の突入に先立つわずか4分前の8:42。そこから墜落した10:03までを通して描かれた9.11。

緊迫感漲る航空管制官達の交信。リアリティーある93便の乗員乗客犯人達の人間描写。緻密な構成とシャープな映像の、見事に迫真的なドキュメンタリータッチで描き出された9.11の全貌。
ポール・グリーングラスの、痛みと共感と祈りの深さに裏付けられた秀作である。

原題:United 93
監督・脚本:ポール・グリーングラス
撮影:バリー・アクロイド
音楽:ジョン・パウエル
出演:ベッキー・ロンドン、シェエン・ジャクソン、チップ・ジエン、クロー・シェーン、クリスチャン・クレメンソン、
2006年アメリカ映画/1時間51分
配給:UIP

スーパーマン・リターンズ 


クリプトンに帰省したスーパーマンが地球に帰還した時、既に5年の歳月が流れていた。この間、ロイスは「スパーマン不要論」でピューリツァー賞を受賞!さらに結婚して1児の母となっていたのだった。果たして、今の地球にスーパーマンの居場所は有りや、ってところから始まるリターンズなのである。

正義と真実のため、日夜戦い続けてきたスーパーマンにしてこの扱いなのである。愛する人は子持ちの人妻となり、その上存在さえも否定されるのである。スーパーマンも人の子であれば、こんな仕打ちに耐えかねていっそダークサイドに身を投じたとしても不思議はない。そうなったとして、一体どこの誰がこの超人を責めることができようか、てなもんである。

がしかし、我らがヒーロー界にあって、頂点に君臨する男はそんな眼にあっても決してグレたりしないのだ。恨まず腐らず悪びれず、ただ正義と真実を守る為に、人々が必要と言ってくれる日を信じて身を粉にして闘うのである。ヒーローも生き難い時代への対応を迫られる嫌な時代に、愚痴ひとつこぼすでもなく自分の使命を果たそうとする。立派だ。

出世作Xメンの演出よりスーパーマンを選んだブライアン・シンガーだが、巻頭から透過3Dのタイトルロゴ、ジョン・ウイリアムズのテーマ曲、マーロン・ブランド、ジェフリー・アンスワースの麦畑等々、次から次に繰り出されるイメージは1978年のリチャード・ドナー版スーパーマンへの敬意に満ち満ちている。

あれがほんとに大好きなんだなぁという感じが色濃いが、でも、全然構わない。ヒーローはよりパワフルだし、助走なしのフライングもスピードと安定が増して格好良いい。ケビン・スペイシーのレックス・ルーサーもジーン・ハックマンより大物感があって大変結構。ロイスがもっと魅力的だったら、切なさ増した結構な大人の恋愛映画にもなったものを、と惜しまれた。



ちなみに、76年「キングコング」77年「スター・ウォーズ」78年「スーパーマン」という順序で制作公開された3作品、約25、6年たって、時を同じく完結、リメイクってのはシンクロニシティーかノスタルジーか企画の貧困か単なる偶然か分からないが、何かと興味深い。


原題:Superman Returns
監督:ブライアン・シンガー
脚本:マイケル・ドアティー、ダン・ハリス
撮影:ニュートン・トーマス・シーゲル
音楽:ジョン・オットマン
出演:ブランドン・ラウス、ケイト・ボスワース、ジェームズ・マースデン、フランク・ランジェラ、エバ・マリー・セイント、ケビン・スペイシー
2006年アメリカ映画/2時間34分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2006/09/10

Xメン/ファイナル・ディシジョン


自分の命と引換に仲間を助けたジーン。ジーンを失ったXメン達は立ち直れずにいた。そのころミュータントを無力化させる新薬が開発される。マグニートーは危機感を募らせ、プロフェッサーとの対立は一層激化し、全面戦争に突入する。しかし、Xメンの前に立ちはだかったのは他でもない、超絶的な怒りのパワーとともに蘇ったジーンその人だった。

いや、参りました。最高かこいい。
あの人もこの人もバタバタと消えていく劇的な展開だが、行動の心理的裏付けがしっかり描かれているからドラマが盛り上がる。ドラマが盛り上がるから超能力戦に一層の説得力が生じ、見せ場が見せ場としてのドラマ的意味と視覚的価値を発揮している。緩急も観客の心理によく対応し、無理なく乗せられる。乗せられたままあり得ない怒濤のクライマックス。超絶サイキック戦のVFXを最後の泣かせる大芝居へと見事につなげた技にも痺れた。

シリーズ前2作のブライアン・シンガーが「スーパーマン」へ、「スーパーマン」をやるはずだったブレット・ラトナーが「Xメン」へと変わったという事情があったらしいが、どちらも素晴らしい仕上がりで誠に喜ばしい。ブレット・ラトナーには大満足だ。

原題:X-Men: The Last Stand
監督:ブレット・ラトナー
脚本:ザック・ペン、サイモン・キンバーグ
撮影:ダンテ・スピノッティ
音楽:ジョン・パウエル
出演:ヒュー・ジャックマン、ハル・ベリー、ファムケ・ヤンセン、イアン・マッケラン、パトリック・スチュアート、
2006年アメリカ映画/1時間44分
配給:20世紀フォックス映画

2006/09/03

グエムル/漢江の怪物 


白昼、河川敷の市民は突然正体不明の怪物に襲われる。蹂躙を尽くした怪物は多数の死傷者を残し漢江に姿を没し、市民はウイルス感染の恐れから強制隔離される。怪物に一人娘を殺され、悲嘆にくれる父親に当の娘から携帯に連絡があり、当局に訴えるが取り合ってもらえない。娘の生存を確信した家族は独力での救出に立ち上がる。

前評判の高い韓国発怪獣映画は、怪物相手に孤軍奮闘する家族の姿を通して、家族の素晴らしさと情けない中年男の自立と再生とを描いている。それ自体に何の異論もないが、シチュエーション設定やキャラ造形の全てがその一点に向けられていて、怪獣の魅力はおいといて、はなはだ興をそがれた。

相当な人的被害が出てるにもかかわらず、怪物に対するマスコミ警察軍隊の反応がウイルス汚染対策だけというのでは、タマちゃん一頭で連日大騒ぎをした日本国民を説得するリアリティーには欠ける。ソン・ガンホの駄目オヤジ振りも、巧みな程にかえってあざとくも感じらる。

カメラに写っているところはしっかり描かれているが、その裏で世界がきちんと機能してる様子はなく、テーマに都合の良いようにしか動いていないのが弱点。止めの一撃で人間と怪獣の体重差が考慮されてないのも象徴的なのだが、要は個と全体の描き方が感情的すぎ、バランスも悪いのだ。

怪獣の造形と生態は見応えがあり、お祖父ちゃんと孫娘と叔母さんはとても魅力的。

英題:The Host
監督・脚本:ポン・ジュノ
脚本:ハ・ジョンウォン、パク・チョルヒョン
撮影:キム・ヒョング
音楽:イ・ビョンウ
出演:ソン・ガンホ、ペ・ドゥナ、ヒョン・ヒボン、パク・ヘイル、コ・アソン
2006年韓国映画/2時間
配給:角川ヘラルド映画

マイアミ・バイス


マイケル・マンがTVシリーズの製作総指揮だったとは知らなかった。それにしては、と言うべきか、だからというべきかTVとは随分違う。オリジナルが陽気な洒落者コンビだったのに比べると、ジェイミー・フォックスとコリン・ファレルは陽気でもなけりゃ洒落てもいず、笑顔のひとつみせるでもなく、ジョークのひとつも口にすることなく、正体不明の麻薬王をあぶり出すべくシリアスにハードな潜入捜査に邁進しするのだった。

前作「コラテラル」が快調だったマイケル・マン、その余勢をかって自らのヒットシリーズをリニューアルという感じなのだろう。スタイリッシュな画作りで力の入った演出なのだが、いまいち盛り上がらないのだなぁ。それというのも、コリン・ファレル、ジェイミー・フォックス、コン・リーに魅力がない。いつまでたってもちんぴら感が消えないファレルがやたらいきがって、しかもむさ苦しいし、コン・リーのキャリアウーマン風には輝きもなけりゃ説得力もない。

ストーリーと主演の3人を除けば、魅力的な画は随所にある。壮大に盛り上がった雲間を飛行するプライベート・ジェットと捉えたグラマラスなショット。イグアスの滝の大俯瞰も素晴らしい。マイケル・マンのタッチは悪くないのだが、脚本がもっと良くて、主役三人全取っ替えで、ゴージャス感があって、あと30分短かったら楽しめたこと請け合い。

原題:Miami Vice
製作・脚本・監督:マイケル・マン
製作:ピーター・ジャン・ブルージ
撮影:ディオン・ビーブ
音楽:ジョン・マーフィー他
出演:ジェイミー・フォックス、コリン・ファレル、コン・リー、
2006年アメリカ映画/2時間12分
配給:UIP

2006/08/20

表現したい人のためのマンガ入門

変な名前ってことでは、例えば吉田戦車や吉本ばなななど、結構なインパクトがあった。しりあがり寿http://www.saruhage.com/ってのも相当変だが、末広がりの言い換えには芸があるし、寿には社会性豊かな常識人の気配が漂う。意味不明な戦車やばななの暴力性に比べ、「しりあがり寿」には良識というか、理知と含羞もほの見える。

この、へたうま派の巨匠がガイドする「マンガ入門」は、若くして漫画家を志して以来、しりあがり寿がどのように生まれ、何を考えどのように漫画を書き続けてきたか、自作の解題を通して語られるその軌跡が、昭和から平成へと変化していく世相とともに、若さから成熟へと真っ当な変化を遂げる作者を確かな輪郭で浮かび上がらせる。それがとても気持ちよく、これがまた格好いい。

「表現したい人のためのマンガ入門」とはいうが、マンガを描くためのHow to本としての効能を期待したら裏切られるだろう。言ってみればマンガを通して物事の普遍的なHow toに迫った野心作。タイトルから言えばむしろ「表現したい人のため」の部分にこの本の眼目がある。表現したい人の、とはつまり、全ての人に向けてという意味だろう。なんと大それた、でもそれだけの面白さはある。

講談社現代新書

2006/08/13

サイレントヒル 


ゲームの映画化ってことで、元のゲームは知らないしホラーも苦手だから見る気はなかったが、絶賛する声が少なくないのが気になって見に行く。行って良かった。

夢遊病の娘がつぶやく言葉に導かれ、サイレントヒルという名のゴーストタウンにたどり着いた母と娘。しかし娘は忽然と姿を消し、母は我が子を取り戻すべく死の街の奥深くに分け入っていく。

元がゲームというだけあって、ゴーストタウンで娘を追うだけのシンプルな設定。ここにヒロインの危機が連続するプロセスもまたゲーム的だが、訳分からないまま葛藤、決断を繰り返し、核心に肉薄していく母親を演じたラダ・ミッチェルの節度、品位、色気のバランスが絶妙な魅力は、まさに映画ならでは。

この監督、語り口も見せ方もセンス抜群。イマジネーション豊かな絵作りが素晴らしい。要所要所でヒロインを脅かすクリーチャー達も、怖さより気色悪さが特徴的だが、何より、観客を背後から驚かすような演出をしていない。そういう刺激を期待すると物足り無く感じるかもしれないが、ビクビクさせられるのは嫌なので全然不満はない。

それより世界の全体像が明らかになるにつれ、アート的な統一感を深めていくビジュアルが、思いがけないイメージとスケールで一気に結晶していくクライマックスの素晴らしいこと。このクライマックスの迫力と美しさに唖然。唖然としながらも、力強さと問答無用のカタルシスに心の中で拍手喝采。

おぞましさと気色悪さを、えげつなくも品位のある映像で見せた、アート風味も魅力なホラー。エピローグの切なさも味わい深い。
 

原題:Silent Hill
監督:クリストフ・ガンズ
脚本:ロジャー・エイバリー
製作:サミュエル・ハディダ、ドン・カーモディ
撮影:ダン・ローストセン
音楽:ジェフ・ダナ、山岡晃
出演:ラダ・ミッチェル、ショーン・ビーン、デボラ・カーラ・アンガー、ローリー・ホールデン、ジョデル・フェルランド
2006年アメリカ映画/2時間6分
配給:松竹

2006/08/11

こころ

昔、「夏への扉」なんて名作を読んだせいか、夏にはSFが読みたくなる。面白そうなSFを物色するつもりで書店に入ったが、夏休みのキャンペーンで平積みになっていた「こころ」に、「我が輩は主婦である」の楽しかった記憶から思わず手が伸びてしまった。そうだ、これ読んでないし、夏の課題図書にぴったり。価格的にも嬉しい。ちょっと比較したら集英社320円、角川340円、新潮380円。読みやすそうで、何より安い集英社文庫をレジに持って行く。

夏休みの鎌倉海岸、避暑地の退屈をもてあました私の目に映った一人の男。それが先生との出会いだった。高潔だがどこか冷ややかな人柄、不可解な生き方、謎めいた先生と過ごした豊穣の時。不意に訪れる別れと全てを明らかにする手紙。不幸の上に幸せを成り立たせてしまう人間の罪と罰。

そうか、こういうお話だったのか。もっと重苦しくて暗いものと思ってたが、明晰な文章の平明なお話だった。倫理的道徳的なテーマ性からも、若い時により切実な共感をもって読めたら一番だろう。ここに描かれた板挟みには普遍性があると思う一方で、今の時代、若い人達がどの程度のリアルさを実感するものなんだろうかとも思う。

何より、「こころ」に登場する女性達は今日的な説得力に欠けた存在に映らないか。このあたり、今の女性から見てどうなんだろうか。漱石の描く女性達はあまりに封建的な女性観の範囲に納まっている。漱石って、女の人が巧く描けない人だったのね。いやこれは貶してる訳じゃなく、好感している訳ですけど。

我が輩を主婦に乗り移らせたクドカンはいろんな意味で深いなと改めて思った。

日本沈没

樋口監督、VFX的には気持ちよい絵作りだが、それ以外はとんと魅力がない。

国土消失の危機に瀕して一向に盛り上がらない展開は、ミクロ的にはべたな感傷の大安売りで恥ずかしいし、マクロ的には危機管理のダイナミズムに欠ける。

早い話が、「タイタニック」と「アルマゲドン」を足して4で割ったような、実にどうも、この素材にしてこの料理かと、あまりに安手なドラマ連発の沈没具合に脱力しきりで、泳ぐ気力もなく溺死。

ハチミツとクローバー

5人の美大生の恋愛模様を描いた人気少女マンガの映画化。評判がいいので観にいった。

奇才天才平凡美貌入り乱れた仲良しグループが繰り広げる、全員片想いのトレンディードラマ風ラブコメディー。5人の専攻がそれぞれ絵画、彫刻、建築、陶芸でお洒落方面に強いデザイン科生がいないのはちょいと意外。主人公は天才とうたわれる大学1年生、この少女が抽象画で認められてるって設定はちょっと面白いが弱い。

でも、そうゆー理屈や些細なことは気にしない。スクリーンに映る若く美しく魅力的な俳優達の青春を楽しもう。葛藤や挫折はもれなく青春に付いてくる、オヤジには、それがいくら緩そうに見えたって、当事者にとっちゃ大変なことには違いない。

陶芸専攻山田を演じた関めぐみ、他の4人にそれほどキャラクター的な魅力がない中、ひときわ輝やきが魅力的。素晴らしい。



コメント

2006/07/29

「アフターダーク」村上春樹    

 社会は確固としてあり、制度は正しく機能しているように見える。でも、自他との関係性に戸惑い、喪失観を覚えながら世界の確かな手触りを探し求める。「風の歌を聴け」からこっち、村上春樹のテーマは一貫している。デビュー25周年記念を謳った最新作「アフターダーク」も例外でない。

 真夜中の大都会。ファミレスで、ラヴホテルで、オフィスで、小さな公園で、様々な眠れぬ理由を抱えた人たちの時間が過ぎていく。

 新作はキャラクターもモチーフも村上春樹ならではだが、視点=描写は一新している。これまでのように、主人公の独白から作家が抱いている世界への違和感や評価を読み取ることはできない。おそらく、そうした読まれ方を拒否しようとする立場から、視点は単なる視点とし、純粋なカメラアイとしての描写に徹した今回のスタイルが生み出されたのではないか。
 
 ドキュメント、というより読者に客観を意識させ続けることを第一義としたような文章は、春樹的世界を期待する読者に、そんなものを求めるより、自分の目で世界を観ろと語りかけているようで、そうした気配は、作者特有の比喩も警句もユーモアさえ排除されているところにも感じられる。自分の得意手を封じ込め、表現を革新しようとするのは芸術家の必然でもあるが、そんな作者の姿勢と勇気には敬服しつつ、しかし結果にこれまで以上の成果が認められるかどうかは別の話。

 50半ばの作者が20代前半の男女をどう描くか。別にどう描こうが、リアリティーあれば構わない。だが「アルファビル」や「ある愛の詩」を引用する今時の大学生にリアリティーがあるか。特殊すぎないか。オヤジの趣味を今時の若者に語らせるのはかっこ悪いのではないか。スタジャンにベースボールキャップの使い方も、キャラクター的には理解できるが今時どれほどのヤングがナウなファッションとして支持するか疑わしい。そのあたりの説得力の乏しさに、流れ去った時間の長さが映っているようだ。

 今までと違う視点を用意したならなら、今までとは違うものが見えてもいい。だが、導入からはロバートワイズを、姉妹には「グロテスク」を、眠り姫と顔なし男には「回路」が連想されるなど、どこかで観たような感じがつきまとうのも気になった。何より読者に客観を強いる割に、作者がをそれほど自分を客観視していないようなのが一番気になった。
とはいいながら、ファンとしては、しっかり楽しんだのも確かなこと。

2006/07/25

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト


青い空。紺碧の海。緑のジャングル。
夏休み気分をいっそう盛り上げる美しい風景の中、根性真黒な人間達のエゴと欲望に魔物は目覚めカリブは泡立つ。

なじみのキャラに会えるのは続編ならではの楽しさ。オーランド・ブルームに加わった落ち着きが印象的。
ジョニー・デップのジャック・スパロウ。C調で無責任で露悪的で自己中で助平でいつもふざけていているけど、頼りがいがあって愛嬌があって男気がある人気者。前作ではアカデミー賞にノミネートされた当たり役。ジョニー・デップのキャリアから見れば異色過ぎるキャラだし、海洋冒険活劇映画史上から見ても画期的な変態を、今回はさらなる余裕と貫禄で演じ、完璧に一体化しているように見える。

伸び伸びと楽しげなジョニー・デップが発散するオーラが、画面全体に活力と品位を与えているのは確かで、船長が受け持つコメディー要素の増量、加速感も面白さに拍車をかけている。

デップの怪演と並ぶ、この映画の魅力は、爽快感溢れる海洋シーンと、おぞましくも魅力あるクリーチャー達のCG映像だ。最近ではCGの凄さに驚くこともなくなったが、この作品のキャラクターデザインとCGには、「カーズ」に続いてゾクゾクした。
例えば、デイビー・ジョーンズの生な質感と足毛のデリケートな動き。クラーケンのダイナミックな攻撃力には「海底2万マイル」の伝統も脈打っている。

流石、ILM。新たなVFX工房が続々と名乗りを上げる中、いつしか以前ほどの存在感を示すこともなくなったと思っていたが、老舗の実力というべきか、カリブの海を舞台に、イマジネーションの豊かさ、表現技術の高さを存分に見せつけた映像がとことん素晴らしい。150分の長尺をダレずに見せ切る、タフで、ゴージャスにグラマラスな快作。物語は150%スケールアップ、映像は200%ボリュームアップ(前作比)した欣喜雀躍の面白さ。

が、ストーリーもキャラ造形も、よくぞここまでパクッタなと言うくらいスター・ウォーズ「帝国の逆襲」をきっちりトレースしている。当然、3作目はルーカス対ブラッカイマーの訴訟付き「ジェダイの逆襲」?? 


原題:Pirates of the Caribbean: Dead Man's Chest
監督:ゴア・バービンスキー
脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
製作:ジェリー・ブラッカイマー
撮影:ダリウス・ウォルスキー
音楽:ハンス・ジマー
出演:ジョニー・デップ、オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイ、ビル・ナイ
2006年アメリカ映画/2時間30分
配給:ブエナビスタ

2006/07/15

吾輩は主婦である  最終話

とうとう終わってしまった。

7週目から毎日1エピソード完結の定型を破り、展開に切れ目がなくなった。最終週に入って、吾輩は行方知れず。別れの予感に切なさ盛り上げては、キレたギャグで混ぜっ返す連日の泣き笑い。この無茶苦茶な設定の、それでいてじんわり心に沁みてくるお話の決着を、一体どうつけたものか。最後の最後まで先の読めない展開のまま、あぁー、とうとう全話終了してしまった。

楽しかったなぁ。
ソープオペラでありながら、スクリューボール・コメディーでもある。しかも二人の子供がいる夫婦の純愛!という超絶変化球。漱石に憑依された変な主婦を丸ごと愛して止まない夫と家族と愉快な仲間達。毎日留守録を見続けたこの2ヶ月、つまらなかった日は一度として無かった。

迷いもない、ブレもない、臆面もない。人間観察と表現の妙。心優しくも劇薬成分含んだ台詞。クドカンの紡ぎ出す言葉に演者は輝き、その輝きに視聴者は打たれた。
緩急自在の展開。終盤の伏線が鮮やかに決まり続ける快感。知的で計算し尽くされた骨格に、情緒豊かな肉付けも見事な脚本。行き届いた心配りも刺激的なドラマでした。来週が淋しい。

期待に違わずそれ以上の、またもや宮藤先生にはいいもんみせてもらった。ありがとう。それにつけても、大人計画のなまはげとももえ、よかったなぁ。

2006/07/02

カーズ


「カーズ」初日。心待ちにしていた1本。夫婦50割引なら安いが、今日はそんな気分ではなくレイトショーまで待って出かけた。そしたら何と、今日は映画の日で一律1000円。なんか釈然としない。

そんな気分も前座の短編で有散霧消。二人の大道芸人が子供からおひねりを得ようと芸を披露するが決着がつかず、技をエスカレートさせながら際限の無いバトルに突入して行く。シックなビジュアルにエスプリを効かせたお洒落なコント。ピクサー恒例のオマケ短編が今回も又、憎いくらいに和ませてくれる。

本編の「カーズ」。ピクサーが、これまでに生み出して来た魅力あるキャラクターやストーリーの数々。それらに比べて、更に魅力と面白さを増したこの車達。

「ルート66」沿いの、時代に取り残された小さな街「ラジエーター・スプリングス」!を舞台に、マックイーンやロック・ハドソンなどと呼ばれる車達が、表情と動きの絶妙さで繰り広げるハートウォームなドラマ。乾いた風景と好一対のピクサーらしい叙情が心地よい。

空気の深さが存分に表現された風景描写が見事。60年代の輝きがノスタルジックに甦える「ラジエーター・スプリングス」の美しさ。老人から子供まで、誰もがそれぞれの経験を通して車達の姿を受け止め、楽しむことができることだろう。
傑作。

インサイドマン

スパイク・リーが豪華キャストで演出した犯罪映画。期待するなってのは無理ってもんだ。当然見るっきゃない。

マンハッタンに白昼堂々の銀行強盗。人質を盾に隙を見せない犯人。翻弄される捜査陣。後手に回る人質救出。政治的な圧力に混迷を深める中、意表を突く動きで状況を支配し続ける犯人達。

ニューヨーク市警のやり手警部デンゼル・ワシントン。完全犯罪を目論むクライブ・オーウェン。政治的な介入を図る弁護士ジョディ・フォスター。曰くありげな頭取クリストファー・プラマー。SWAT隊長ウィレム・デフォー

役者達は自分のやるべきこと充分わきまえ、余裕と貫禄で演じている。中でもクリストファー・プラマーとジョディ・フォスターは、予定調和的だが、だとしても見事な演技合戦だ。

デンゼル・ワシントンはことさらマッチョなキャラクターを演じている。リーの作品だし、伸び伸びと楽しそうで手応えも伝わってくるが、これだけキャリアを積み上げ、大物感を増した今となっては、このマッチョ振りは演じ過ぎでちょっと痛かった。

脚本は良く練り上げられている。演出も緻密で、先の読めない展開にハラハラ、ドキドキは必要充分。謎もサプライズもしっかり用意されている。観客をハイレベルなもてなしを約束してくれる映画だ。面白いし楽しめる。

しかし、核に据えられた罪と罰、理屈としては分かるが今日性に欠けている。なんつーか、この作品の緻密さとは、結局机上で、頭の中で捏ね上げられただけのものと、一瞬に明らかにされたような気分にさせられた。こういうサプライズは困る。

原題:Inside Man
監督:スパイク・リー
脚本:ラッセル・ジェウィルス
製作:ブライアン・グレイザー
撮影:マシュー・リバティック
音楽:テレンス・ブランチャード
2006年アメリカ映画/2時間8分
配給:UIP

ナイロビの蜂

死ぬ程面白いル・カレのスパイ小説だから、いくつか映画化はされている。全部映画館で観ているが、残念ながら成功した作品は最初の「寒い国から帰ったスパイ」だけだ。それ以外には、面白くなかった記憶しかない。

冷戦構造の崩壊以降、CIAとKGBの暗闘というような設定はリアルさを失い、ル・カレの視線も大国のエゴと弱小国家、少数民族の悲劇などにフォーカスするようになった。「パナマの仕立て屋」はル・カレ自ら、製作脚本に名を連ねて映画化に当たっている。原作も新境地を感じさせる作品だったから、映画化にはことさら気合いが入ったのだろう。

だが、出来はどうだったかはわからない。原作は途中で読むのを止めてしまい、映画も途中で寝込んでしまった。だから「パナマの仕立て屋」については何も分からない。ル・カレを途中で放棄するという、以前は考えられない自分の態度に、時間の流れを感じ、我ながら淋しく思ったのは確かだ。

「ナイロビの蜂」の原作も読んでいない。読んでいないが、これはいかにもル・カレを感じさせる。ル・カレの映画化として最良、最高の作品になっていると思った。ル・カレな面白さが伝わってきた。

静かな英国外交官の心を捉えた女性は、タフでエネルギッシュな人道主義者、バリバリの理想主義者だった。本来出会うはずの無い二人は、それ故に惹かれ合い結婚するが、この出会いが妻の命を奪うことになる。妻の死の真相を突き止めようとする夫が追体験する妻の生き方。やがてアフリカの大地と人々の背後に、富める者たちの不毛な欲望が浮かび上がる。

階級に守られたコンスタントなガーデナー。安寧にぬくぬくと生きてきた夫のレイフ・ファインズがいい。この人は今まで一度も良いと感じたことが無かったが、妻の生き方を通して、階級意識を乗り越え、世界を再発見して行く夫の反省する姿に、自然な説得力があってとても良い。妻役のレイチェル・ワイズは、これでアカデミー助演女優賞を受賞。確かに見せ場も豊富で、受賞もなるほどと思わせる体を張った熱演だった。

アフリカのスラムに生きる人々を捉えたカメラの迫力。「シティー・オブ・ゴッド」(未見)で評判をとった監督は、世界を社会派的な視点で追いながら、しかし権力や国家や組織を安易に告発するのではなく、あらゆる問題も、つまりは個々人の生き方の問題ではないのかと問いかけてくる。大人なのだ。

理想と現実の間を埋める。そこに夫婦の、というより男女のすれ違いの愛ではあるが、ストレートに愛を持って来たところには、原作に忠実な映画化だとしてだが、何よりル・カレの成熟が感じられる。


原題:The Constant Gardener
監督:フェルナンド・メイレレス
原作:ジョン・ル・カレ
脚本:ジェフリー・ケイン
出演:レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ、ビル・ナイ、
2005年イギリス=ドイツ合作/2時間8分
配給:ギャガ・コミュニケーションズ

吾輩は主婦である 6週目

中年の優柔不断男と勘違いな恋愛中のつぼみ。つぼみの将来を案じた吾輩は不毛な恋を諦めさせようとするが意は通じない。そこでどうするか。ここで大学のミュー研出身という出自も効いて「話して分からなきゃ歌うしか無い」という、よく分からない論理で説教をミュージカル化!。みんなで演じてつぼみの説得にかかるのである。というのが今日のお話。

こういうナンセンスをサラリと設定してシラーっとしてるのがクドカンの楽しいところだが、更に素晴らしいのは、これを魅力的に演じる人を再発見するセンスの鋭さ。流石だ宮藤官九郎。篠原涼子、小泉今日子に続き、斉藤由貴の隠れた魅力を見事に引き出した。大人計画の池津祥子、猫背椿のパワーは凄いし、他の出演者達ももちろん良いが、その中心にあって、吾輩振りが板についてきた斉藤由貴の魅力が、実にどうも抵抗できないくらい、抜群なのである。

吾輩のナレーションに合わせた顔面の演技が多いのは、正統派の美人女優には喜ばしい状況ではないだろうが、こういうことをきちんと演じる人はとてもチャーミングかつクレバーに見えてくるものなのである。ましてや今回は夏目漱石なのだが、斉藤由貴の無愛想には、明治の文豪に拮抗する知性が感じられて不足も無い。漱石が妻という理不尽に嫌な顔ひとつせず、普通を貫く夫の、普通じゃない大きさを見せるミッチーのさりげなさもナンセンスに奥行きと深みを与えている。
毎日可笑しくて、家族そろって楽しんでいる。クドカンに一家団欒の確かな時間を保証してもらっているような塩梅だ。

2006/06/25

荒ぶる血 J・カルロス・ブレイク

その昔、「戦うパンチョ・ビラ」という映画でメキシコ革命の英雄の名前を知った。そのビラが、この本ではビジャと表記されていてどうも気色が悪い。試しにググれば、どっちの名前もヒットする。さらに、Wikipediaではビリャ、ヴィヤ、との表記も。Pancho は統一されているが、Villaについてはビラ、ヴィラ、ビジャ、ビリャ、ヴィヤ等々。訳者の立場や見解の多様さにこっちも戸惑った。ビラとの刷り込みはありつれど、ま、ここはビジャ、っつーことで。

ビジャの側近のご落胤。血と暴力の選良、ジミー・ヤングブラッド。と、名前からしてカッコ良ければ勢いもある主人公。騒ぐ疼く迸るラテンの血を苦もなくコントロールし、熱く成長して行く男がクールに綴る1人称。

腕と度胸でめきめき頭角を顕わし、着実にのし上がったヤングブラッド。奢りも無ければ高ぶりもなく、淡々とトラブルを処理する若きギャングの心を捉えたメキシコ娘ダニエラ。二人の恋がメキシコ湾を赤々と染め上げ、平和と安らぎが訪れた時、国境の南から、思いもよらぬ脅威がダニエラへと着実に歩を進めていた。

ストーリーというより、エピソードをふんだんに使った構成が、奥行きやスケール感を醸し出している。主人公より周辺人物のキャラクター造型にエネルギーを注ぐ作者の手口は効果的。アクションは簡潔に、仲間の憎まれ口やジョークの応酬は入念に書き込むスタイルも前作同様。粋でお洒落だ。

相手ギャングの車に強襲する計画の立案、作戦変更、代替案作成、実行、逃走とあっという間の素っ気なさ。それでいて臨場感も迫力もたっぷり。この強襲場面がカッコいい。沢山エピソードがあって、キャラも沢山出てくるが、とりわけ印象深いのはジミーを見つめるアバの視線。誰を殺して誰を生かすかの選択も正しい。

カッコいい主人公がとことんカッコいいというストレートさ、臆面のなさは、思いっきりロマンティックな世界で花開くというお約束をきっちり貫いた痛快作。

執念のマンハントから子別れ、色模様まで、エピソードには事欠かないが結構既視感もある。作者は映画からの影響もかなりのものと思しいが、今回のケレン味はロバート・ロドリゲス的だ。

M:i:III

監督候補が二転三転し、製作の難航など伝えられたこともあった。それでも無事に完成したものの、宗教的ドキュンな言動が嫌気されたトム君は人気が急落、公開に際しボイコットする映画ファンも少なくなかった。なんてレポートされてたイーサン・ハントのシリーズ3作目。

拉致誘拐された女性エージェントの救出からインポッシブルなミッションのつるべうち。派手なアクションシーンをつなぐのは、必要最小限の状況設定で進行が早く、寝ている暇もない。手元のソフトドリンクを飲むのさえ忘れてしまった。

製作者として主演者としても、トム・クルーズの並々ならぬ実力を実感させる仕上がり。イーサン・ハントの公私混同した動機付けで情緒を高める。きれいな顔を傷だらけにして目には涙。慟哭する姿は女性の感覚にヒットするだろう。インポッシブルなアクションには男性客も納得。007で言えば、「女王陛下の007」を思わせるヒロインの扱い。J・J・エイブラムスの演出は快調で、気持ちの良さと悪党の存在感から言ってもシリーズ中最高。一番好きだ。

敵役にフィリップ・シーモア・ホフマンをキャスティングしたセンスに脱帽。「マグノリア」での気弱な介護士からは想像つかない、貫禄たっぷりの悪党振りがうれしかった。

原題:Mission: Impossible III
監督・脚本:J・J・エイブラムス
脚本:アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー
撮影:ダン・ミンデル
音楽:マイケル・ジアッキノ
出演:トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ローレンス・フィッシュバーン、
2006年アメリカ映画/2時間6分
配給:UIP

デスノート

そのノートに名前が書かれたら死んでしまうという、現代社会の病理を鮮やかに照らす、デスノートの設定の卓抜さ。
原作はしっかりした線で細部まで描き込まれた絵柄に、台詞や文字情報が多くのっているから、読むのには結構な集中力が必要だ。
しかし、原作のビジュアルそのまま、金子監督は手際良くデスノートの世界へと観客を導入してくれる。
それぞれのキャラクターの魅力や雰囲気に忠実な絵作りで、お話も平易で分かりやすく展開されていて、これなら原作読むより映画を観る方が余程らくちんだ。 エルがちょっと馬鹿っぽかったが、役者は総じて感じ良く、死神リュークのCGには不安もあったがロングショットのインパクトなどCGならではの魅力。

社会正義から超法規的処刑人を自覚したライトが、やがて快楽殺人者へと変身して行く。 今日的な課題、問題意識を娯楽に転じて面白く見せて面白かった。

間宮兄弟

兄はビール会社の研究員、弟は小学校の校務員。真面目で気立てはよいが、それ以上に兄弟仲がいい間宮兄弟。女性には縁のなかった二人が自分たちの部屋に女性を招待しようと一念発起。その気にさせたのは沢尻エリカと常磐貴子。

従来の男性観からいえば、男所帯にはウジが湧くことになっているが、間宮兄弟は家事全般を見事にこなしている。部屋はきれいに片付き、食事もがランスが取れ、身だしなみもよく、というよりむしろ洒落者。要するに、日常身辺自立度はこれ以上ない程高く、経済的な不安もなく、都市生活をファッショナブルにエンジョイしているのだった。

結局、映画は兄弟のナンパ術を通して、二人の親密さとファッショナブルな暮らし、女性とのすれ違いぶりが描かれるのだが、これがまるで面白くない。

おかしな動作を見せれば観客はおかしがるはず、変な顔みせれば観客は笑うはず。と考えて作るのは別に構わない。掴みはそれでも笑えるが、それをズーッと続けられては困るのだ。ところが、引き続き森田芳光がこれっておかしいだろ、こういうのってお洒落だろと見せてくれるものは、常磐貴子や高島政宏が可哀想に見えるくらいのベタな演技を筆頭に、どうひいき目に見ても可笑しくない、見かけ上のことで、うわっすべりも甚だしい。

塚地の熱演、沼尻エリカの決め台詞など、語り口や見せ方に技も芸もあるが、心に届いてくるものが一向に無い。痛い映画だった。


監督・脚本:森田芳光
原作:江國香織
撮影:高瀬比呂志
音楽:大島ミチル
出演:佐々木蔵之介、塚地武雅、常盤貴子、沢尻エリカ、戸田菜穂、高嶋政宏、中島みゆき
2006年日本映画/1時間59分

かもめ食堂

評判良いので見たかったが、単館公開で諦めていたところ、近くのシネコンに掛かったので見にいった。
ヘルシンキで日本食堂を開いた3人の女性の話、という予備知識だけでは内容の見当もつかなかったが、映画が始まり、かもめ食堂が映し出されると、その外観がえらくカッコいい。なるほどそうか、ヘルシンキったら北欧デザインの本場ではないか。

おにぎりがメインのかもめ食堂。開店はしたが客は来ない。それでもオーナーの小林聡美は泰然自若。きちんと仕事をしていればいつか道は開ける。という信念のもと、慌てず騒がずグラス磨きに余念がない。店内はシンプルな北欧家具。きれいに整頓された厨房にも、形の良い調理器具がバランス良く並んでいる。そこに片桐はいりが加わり、もたいまさこが登場し、いくつかのトラブルがかもめ食堂を通過して行く。

特に大事件がある訳でもなく、ストーリーが何かを伝えることも無い。キチンとした姿勢できちんとした仕事をして、毎日を健康に暮らすことの気持ち良さを丁寧に描いている。この作品の言わんとしていることは誠によくわかる。単に生活様式に留まらず、今や人生そのものがデザインの対象となる時代だ。だけどさ、整理整頓が苦手、だらしなくて、明日やれることは今日しないというのが生まれながらの我が身とすれば、小林聡美のスタイルは眩しすぎ。

3人の女性は姿勢よくそれぞれ魅力的な個性を演じている。親しき仲にも礼節をわきまえた3人の距離感も気持ちがいい。大胆なテキスタイルの衣装を苦もなく着こなしたもたいまさこの迫力と存在感が素晴らしい。

デザインということにこれだけ焦点を合わせたつくりは新鮮だし、隅から隅まで計算とデザインが行き届いていて気持ちがいい。「クロワッサン」的といったらいいだろうか。

「吾輩は主婦である」折り返し

吾輩の折り返し
全40話のうち、前半20話が終了。
夏目漱石が憑依した主婦とその家族の日常を描いた昼メロ。内容を簡単に言うとこうなるが、そんなもの、まともな大人ならまともにとりあうはずもない。第一仕事の真っ最中だし、でも、笑ったなぁー。毎日留守録を見ては爆笑につぐ爆笑。

カルチャーギャップとご近所付き合いに腐心し、母性本能に目覚め、夫を拒みつつ作家への野心を募らせて行くという、迷走、暴走極まりない斉藤由貴の吾輩が、貫禄充分の素晴しさ。 子供達を除くほとんどの登場人物が、多かれ少なかれ何かと壊れまくる中、唯一人真っ当な人物として描かれている夫を演じるのが及川ミッチー!というのも気が利いている。

宮藤作品の常連もご新規さんも、みんながみんな楽しそう。昼メロとは思えぬ豪華キャストが、ハイテンションで繰り広げるシチューションコメディーを支えきる脚本は、いつもながらのクドカンらしい切れ味と毒ある優しさに溢れた素晴らしさだ。

20話でネタが尽きた、なんぞの話もあったが、登場人物達の生き生きした動きを見れば、まだまだこれから、あと20回きっちり録画しよう。そうして全40話収録の暁には一挙鑑賞で楽しもう。
http://www.tbs.co.jp/ainogekijyo/syufudearu/

2006/06/04

無頼の掟 J・カルロス・ブレイク

「このミス」ベスト3。うん。いや面白い。
カルロス・ブレイク、格好良さにとことん拘ってるところが素晴らしい。当然ケレン味もたっぷりだが、修羅場は素っ気なく、日常風景を入念に描き込むという、スカしたスタイルから生まれるクールな魅力。

きちんとした教育を受け、能力も人並み以上ではあるが、人並みな人生に何の意味も手応えも感じられない「おれ」が、強盗、強奪を繰り返しながら成長して行く。それがリリカル!に描かれていて、ピカレスクな青春ロードノベルとして魅力的。

「おれ」の資質をいち早く認め、その道へと確かな導きをしてくれちゃうのが双子の叔父達というどうしょもなさ。このキャラクターの味付けが素敵だ。物語の進行には直接関係ない叔父達の減らず口の応酬は面白さのベースともなっている。全体は「俺たちに明日は無い」なのだが、やるかやられるかが基本で、善悪を価値基準として導入していない分軽快に読める。

ひたひたと迫ってくる伝説の鬼警官の描き方がスパイシーでカッコいい。女の絡ませ方もうまいし、アクションもしのぎもリアリさと迫力に不足無い。このミス3位に、何を今更てなもんだが、このセンス、このカッコよさには脱帽。

「嫌われ松子の一生」

ふとしたつまずきがさらに大きなつまずきを呼び、身近な男の裏切りがより大きな裏切りに取って代わる。一生懸命なんだけど何故か未来は拓けない。それでも夢と希望で健気に進む、嫌われ松子の生きる道。

原作は読んでいないが、物語をなぞれば陰々滅々。止めどなく下降して行く破滅型。男運の悪い女性の転落人生。といった流れの、暗さ限りないノワールなフィルムとなって当然。

が、しかし、あの「下妻物語」がデビュー作!の監督は、これをミュージカルコメディーとして料理した。しかもですね、このミュージカルシーンの切れ味、華麗でスマートな演出が素晴らしい。コメディーとしても大ネタ、小ネタ取り揃え、冴えたギャグのテンポも良くて、しっかり笑わせてくれる。

新鮮でツボを押さえたキャスティングも素晴らしい。中谷美紀は魅力全開だし、子役の松子の可愛らしさも出色。男はろくでなしの品評会のようなキャラクター続出だが、武田真治、宮藤官九郎、ゴリ、カンニング武田、劇団ひとり、みんな説得力ある演技と素晴らしい存在感。中でも、こいつデキルと感心したのは谷原章介のボケっぷり。意外なところに顔を出す多彩なゲストを観る楽しさもある。

粋でお洒落で華やかにショーアップされた楽しさと、陰惨で救い様のないお話とがどうして1本の映画として成立してしまうのか。それをいとも巧妙に、高水準高品質な作品として提出できちゃうところに、この監督の天才が如実に現れてる。

タイトルロゴから連想すれば、荒川河畔の夕焼けに染まる松子は、タラの夕日に立つスカーレットにダブって見える。
他からどう見えようと、何をいわれようと、その一生が不幸だったか、幸せだったかなんてことは、結局その人自身が判断すること。ましてや、それが女だったらなおさらに。なんてこと思ったのは、松子=スカーレット・オハラ=女、として描かれているようだったから。

理屈はともかく、中島哲也版「風と共に去りぬ」、隅から隅までチャーミングで、ハイセンス、ハイファッションな傑作でした。

[監][脚]中島哲也
[原]山田宗樹
[撮]阿藤正一
[出]中谷美紀 瑛太 伊勢谷友介 香川照之 市川実日子 黒沢あすか 柄本明 木村カエラ 蒼井そら 柴咲コウ
[配給会社] 2006東宝
[上映時間] 130分・PG-12

クラフトフェア 松本 5.27




平塚発 6:56 茅ヶ崎ー相模線ー八王子 経由 松本着10:40

3週間前に来たばかりだが、今回は配偶者がかねてから希望していた http://www.mtlabs.co.jp/shinshu/event/craftsfa.htm
 に鞄持ち兼観光ガイドとして随行。当然、コスト意識もレベルアップ。その結果、経由地も新宿から八王子へと変更された。
 
 松本駅から徒歩。前回長蛇の列で諦めた信州蕎麦やで早めの昼食。さらにクラフトフェア会場の「あがたの森」まで歩いた。雨の予報だったため、例年より人手が少ないらしいが、広い公園の散策路や広場には出展のブース、というかテントが立ち並んでいる。うわっ、巨大バザー会場、こりゃすげー。

ガラス、石、金属、染織、木工、陶芸、皮革などなど、あらゆる手工芸の作家達が全国各地から集まり、それぞれ自慢の作品を展示販売するクラフトフェア。片っ端から見ているだけで楽しい、あきない、面白い。ガラス、陶芸、染織は女性が多い。特に、染織、織物は人気が高い。

手間ひまかけて作られているから、どれもそれなりの値段がついている。本当に欲しい時は値札を気にしてはいけないが、コスト意識が求められる時にそうは言ってられない。ま、我慢できないほど欲しいものは無かったからよかった。心配された雨もなく、夕方まで会場内を回って過ごした。

1. 会場の一角
2. ガラスの下半身
3. ガラスの大臼歯

イサム・ノグチ展 横浜美術館

イサム・ノグチもレオナール・藤田も、魅力的なキャラクターで日本的な枠に収まらないドラマティックな人生を送った人、ということではよく似ている。まるで藤田からのバトンタッチかと思わせるタイミングで、イサム・ノグチの作品展が横浜で始まった。

イサム・ノグチの仕事を「顔」「神話・民族」「コミュニティー」「太陽」というキーワードで分類、構成した展示。
ノグチの多岐にわたる活動内容と期間の長さから見れば、今回の作品数は少ないと思うが、制作の広がり、振幅の大きさはそれなりに伝わってくる。

振幅が大きいから、キーワードで括るという構成が有効ということもある。意図は分かるが、展示は、時系列的な流れとキーワードの括りによる前後の流れの整理に煩わしさがあり、全体がスッキリと腑に落ちるとはいかなかった。変化が大きい人だけに、制作年代順に並んでた方がより分かり易かったと思う。

今回、金属板を構成した作品にはあまり魅力を感じなかったこと。
陶より、ブロンズより、他の何より、断然石が良かったこと。
おおらかなユーモア感覚が印象的だった。

横浜美術館。ピラミッド型の小さな屋根を挟んで、左右対称に翼が伸びた外観はスッキリした印象だが、石のステージをステップ状に構成した吹き抜けのロビーは最悪だ。見るたびにこのロビーへの嫌悪感が募ってしまう。

「我が輩は主婦である」

クドカンの昼メロ「我が輩は主婦である」
元大学のミュー研!(ミュージカル研究会)仲間の妻と夫。
やっぱり自分のミュージカルを作りたいと会社をやめた夫、ミッチーは郵便局員に転じ、理想的な嫁、斉藤由貴に降臨した夏目漱石は母性の目覚めに戸惑う。無茶苦茶な展開の中に夫婦愛やら家族の絆を描き込みながら、小ネタ、大ネタの大盤振る舞いできっちり笑わせてくれる。悔やむ、焦る、などのロマンティックな言葉に彩られたミュージカルシーンの洗練されたナンセンス。 斉藤由貴のコメディエンヌ振りも、ミッティーの受けも頼もしい。

喫茶店のセットは名作「マンハッタン・ラブストーリー」。何かが乗り移るという設定は傑作「僕の魔法使い」で実験済みだが、今回は取り憑かれ方が更にスケールアップ。 名作と傑作の良いとこ取りから何が生まれるか。いよいよ明日から三週目。いや目が離せん。

2006/05/21

「藤田嗣治展」

乳白色の肌にヘアラインの輪郭と微妙な陰影。繊細華麗な女性像。

フランスで成功し、アメリカを経由して帰国した藤田は、色彩とナショナリズムに目覚めたかのように、西欧の洗練から東洋の土着へと回帰する。

日本に帰った藤田のお気に入りは、生活感溢れる庶民の姿であり、パリで評判となったモチーフからは遠ざかっていく。

秋田の平野政吉美術館にある、秋田の四季と風物を描いた超大作は、モチーフ、テーマ、表現からもこの時期の集大成だろう。
日本を再発見した藤田は意気軒昂としてみえるが、幸せはつかの間。

藤田の生涯を、仏、日本、仏と三期に分けて構成した展示。
二期目に花開いた日本再発見。その締めくくりとして、漆黒の壁面に五点の戦争画が収められた展示室がある。

太平洋戦争に突入した日本。軍部は藤田に従軍画家としての仕事を用意し、藤田は日本人としての誇りと、画家としての名誉を賭け、それに誠実に応えていく。

五点の戦争画は、本来の藤田からは考えられない表現で描かれている。目的を最優先に、言ってみれば滅私を自覚した奉公という立場に貫かれた仕事。

西洋絵画の伝統と教養、技法がストレートに反映した風格ある画面。
藤田が積み上げた修業で獲得したものが何か、自在に駆使された筆から生み出された作品が、その到達点の高さを如実に示している。素晴らしい仕事だ。

藤田が、軍部の要請を受け、戦意の高揚や国威の発揚を意図したとは言え、この五点が、鬼畜米英的な発想から描かれていないのはよく分かる。卓越した描写の記録画ではあるが、中でも「サイパン」の悲劇と「ガダルカナル」の死闘を描いた作品は戦意高揚というより本質的に宗教画だ。

藤田が戦争画を通して描きたかったのは、人間の誇りと尊厳だろう。当時の人々にしたって、これらの画面から戦意を高揚されたり、鬼畜米英を鼓舞されたとは思えない。

この部屋の、というよりこの展示全体の圧巻が「アッツ島」だ。

暗い部屋、たった一人、この作品と対峙したらとしたらどうかと、想像する。慄然とし、粛然とし、しかし恐れおののいて逃げ出すしかないだろうと思う。

敵味方も無く、生死も定かではない人間が画面を埋め尽くしている。
画面左に配置された兵士は体が透けている。
右手には騙し画を思わせるような部分もある。
何がどう描かれているか判然としない。
判然としないがこの気配は一体何だろう。
藤田はこの作品を想像力だけで描いたのだと言う。
だからこそ可能だった仕事だったのかもしれない。

藤田がこの仕事をどのように成したか分からないが、その間、この世ならざるものと通じていたとしても不思議ではないと思わせる。
写真には全く写らないその神髄。
藤田の技術と精神の崇高さを証明する、まぎれも無い大傑作だと確信した。

結局、藤田にとっての国威発揚とは、日本人としての誇りを拠り所に、人間の尊厳を明らかにすることだったのだろう。日本の闘いとはそのようなものであると信じ、その記録に全身全霊を傾けた。誇りある人間の名誉をかけた仕事だったのだ。

しかし、戦後、藤田は戦犯として占領軍から戦争責任を追及される。最終的に無罪となるのだが、その過程で、戦争画を描いた画家達全ての責任を一人で背負うべしと、他の画家仲間から説得されるということがあったという。

己を捨て、祖国の名誉と誇りをかけて人間の尊厳を明らかにしようとした藤田に、そうした周囲の変化や、戦後明らかにされる日本軍の実態がどれほど精神的なダメージとなったかは想像に難くない。日本に裏切られたという藤田の痛切な言葉がそれを物語る。

第三期。展示順に、女神。イソップ物語の擬人化された動物。子供。黙示録を始めとする宗教画。聖堂の壁画。という構成になっている。特徴的なのは、成人男子が描かれていないことだ。唯一肖像画として展示された老人も手にカエルを乗せている。
皮肉なことに、藤田の傷の深さが、藤田の世界を一層深化させもいる。その一方で、藤田は少年の純粋さを生涯にわたって失うことがなかった。

戦後間もなく渡仏。
フランスに帰化し、キリスト教の洗礼を受け、レオナールと名乗り、小さな聖堂の完成をライフワークとした元日本人藤田の、これら一連の行動が、彼の献身に報いること無く放逐した日本の無惨さに追い打ちをかける。
昔も今も、そのような異議を真正面から受け止める大きさを我々日本の大人達は持ったことがあるのだろうか。
大きな大人になりたいなぁ。

「ダ・ヴィンチ・コード」

テンプル騎士団と聖杯伝説という骨格に、秘密結社の大陰謀と血の秘密という伝奇を肉付けし、アートにファッショナブルなデコレーションを施したって感じの作品。

最近なら「ナショナル・トレジャー」。ちょいと前なら「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」に「クリムゾン・リバー1・2」を加え、最後に「ローマの休日」をトッピングしましたって感じとも言える。

話の展開も演出もスピーディーなアクション・スリラー。最近はちょっとダレるとすぐ寝ちゃうことが多いのだが、そんなことも無く見ることができた。

本筋とは関係ないが、キリスト教の歴史を説明するために挿入されるいくつかの場面が世界史の理解に役立つ。SFXをフルに使った映像で構成されたビジュアルな世界史、てな感じで教科書などはDVD化されるのかも。

終わってみれば、レオナルドの「最後の晩餐」がらみで、何故、どうして?と思わせる疑問が次々と湧いてくる。どうもよく分からないことが多いが、あれも、これも、原作ではスッキリ説明されてるんだろうか。

天使のポール・ベタニー。最近では「ファイアー・ウォール」でハリソン・フォード相手にクールな悪党振りがなかなか良かったが、今回も大作の要となる悪党として大変結構な御点前だった。

それはさておき、カンヌ映画祭のオープニング上映後、作品の評価をめぐる報道の中で本編最大のサプライズがネタばれされた。
カンヌの記事を何気なく読んでいたら、いきなり仰天の事実を読まされビックリし、甚だしく興をそがれた。

アレを知らされずに見るのと、知らされて見るのじゃクライマックスのインパクトが違う。作り手の意図も、観客の楽しみも等しく尊重する立場というのが映画ジャーナリストの基本だろうに。

春樹訳 チャンドラー

チャンドラーの「ロング・グッドバイ」が村上春樹訳で来春出版予定だとのこと。
http://opendoors.asahi.com/asahido/boston/002.html

何てこった。 夢想が実現するなんて。

感想> 海辺のカフカ 上・下 村上春樹

少年は世界で一番タフな15歳になろうと思う。猫語を話す独居老人は覚醒する。ドラゴンズファンが海を渡る。全ての道は四国へ。断ちがたい欲望と目に見えぬ悪意。失われた時間は失われたまま、ジョニー・ウォーカーの野望とカーネル・サンダースの思惑が交差する時、秘密の回路が開きはじめる。メタファーに充ちた世界の冒険のメタファー「海辺のカフカ」。

村上春樹は面白い。大概において刺激的だし感動的だ。優しい気持ちにさせてくれるし、静かに力づけてもくれる。ここ数年は、インタビュー、ルポルタージュ、短編集などが相次ぎ、自分などは以前のような村上春樹的世界への欲求が高まっていただけに、「海辺のカフカ」の濃厚な村上テイストには、ある種の懐かしさをおぼえながらすっかり引き込まれてしまった。

懐かしさとは、登場人物達が忘れ物を探し出そうと過去に捕らわれ続けているからであり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出させるからでもあり、そんな風に、物語は一見過去に向かっているようだがそうでは無い。未来のために過去を清算しようとする登場人物達にも懐かしさは漂っている。

絶妙な語り口でスリリングに展開される物語には、生と性、死と暴力が深く立ちこめているし、緻密な構成、洒落た設定、不思議な人物達に気の効いた台詞、スノビズムもペダンティズムも健在。過去の村上作品を集大成するモチーフも網羅されている。

そうした春樹的特徴を十二分に備えながら、しかし、世界への違和感や、居場所の無さに途方にくれるしかなかった過去の登場人物達とは明らかに一線を画した「海辺のカフカ」の登場人物達。感情は押さえられる一方で軽妙さが増している。より平易な言葉によってやさしく分りやすくなった表現に、人を喰ったような大胆さと、心の底の微かな思いに柔らかな光を当てる繊細さとが鮮やかに立ち上がる。

「風の歌を聴け」からこのかた、村上春樹が何を受け取り、何を育んできたきたか。オームと阪神淡路の震災を抱え込んだ挙げ句の、到達点とも新たな出発点とも言えそうな「海辺のカフカ」の、これまでに無い強さと美しさ。全ての面で、新作は洗練の度を深めて素晴らしい。

世界一タフな15歳を目指した少年はどうなったか。何と何と、優しくなれなければ生きていかれぬと思い定め、足取りも確かな一歩を踏み出すのだ。訳書も多い村上の、次はサリンジャーだそうで、これはナイスなキャスティングだが、村上春樹はどうしてチャンドラーに手をつけないかと、思わず夢想するのだった。
                         02.09.26

発行 新潮社 2002.9.10 価格 各1600円+税

「あなたに不利な証拠として」

ネットに書評子絶賛の声がこだましてたもんで、早速本屋に行ったが現物は無い。無いとなれば余計欲しくなるわけで、更に探索区域を広げたが、何処にも見当たらない。四国からの帰路、岡山の大書店、小書店などにも足を運んではみたが無駄骨。

大体、ポケミスよりポケミス置いある本屋の方が珍しい、てな状況が珍しくないという状況もある。探し疲れてというより諦めてアマゾンに頼んだのが3月初めのこと。本が届いたのは4月に入ってからで、ん、4版? 印刷ちゅうだったの?どうりで探しても無いわけだ。その後は安定的に供給されているようで、ポケミスの大量平積みなんぞの珍しい光景にも接し、今や供給過剰が心配される。

ルイジアナの州都バトンルージュの市警に勤務する制服警官の視点から、警察の日常業務が描かれている。その精緻で豊かさのある描写から生まれる臨場感、並々ならぬリアリティーはちょっと比類がない。

さらに、5人の女性警察官達をロンド形式で追う連作短編は、どれもタフでデリケートで誠実な世界を構築している。
生きるという事の何たるかを、生きる事を通して伝えようとする。
日常と非日常の接する時間、生と死が交錯する空間を仕事場に選んだ5人。彼女等女性警官の心の軌跡、生の記録が全10編。
どの作品をとっても、ニュアンスに富み、香気溢れた文章が、切実さと意外性とで生きることの不思議を伝えてくれる。

導入展開で作品世界に絡めとり、後半のキャシーでブースターに点火、ロケットは更に上昇。そして5人目のサラを難儀の末に周回軌道に乗せ、未来を託すという構成も素晴らしい。
MWA最優秀短編賞の受賞作を含む警察小説であるから、ポケミスでのラインナップは当然といえば当然だが、読後感から言えばポケミスより新潮クレストブックなのだった。

「メタル・マクベス」

西暦2206年。あまた列強が激突を繰り返す争乱の世。レスポール王率いるESP王国は着実に領地を拡大しつつあった。ESP王国の将軍ランダムスターは戦功著しく出世街道を驀進中。そんなある日、凱旋の途にあったランダムスターに、3人の魔女が不吉な未来を予言する。予言の全てが収められたという銀色の円盤を手に入れたランダムスター。それは1980年代のロックブームに生まれたヘビメタバンド「メタルマクベス」のデビューにしてラストアルバムなのだった。

「北斗の拳」とか「マッド・マックス サンダードーム」な世界に、人名、国名をフェンダー、ギブソン、レスポール、ヤマハなどの名に変えて、クドカンが語る「マクベス」はメタルなロックミュージカル。

マクベス=ランダムスターの内野聖陽のボーカルは、高音の伸びと切れがよく、声量の豊かさも気持ちいい。夫人を演じる松たか子も、歌の上手さは折り紙付き。ふとした所作の切れ味や、決めのポーズの華麗さ鮮やかさに天与の才が滲み出る。
レスポール王=上条恒彦の息子を演じた森山未来は、タップダンスに演歌独唱と見せ場もたっぷりだが、上手い下手以前に、体を張った努力でそれに応えようとする必死な気持ちが直に伝わって、はっきり言って下手だが好感度大。

重い質感の装置や、不安定感を生む舞台の傾斜も効果的。衣装デザインもナイス。ロックコンサートなライティングと大音量のヘビメタサウンドの迫力に、歌詞のトホホ感ががさらに盛り上がる楽しさ。観客を思いっきり楽しませようとする意図に貫かれたステージは疾走感を維持したまま、20分の幕間を挟んで4時間続いた。これを毎日、日によっては2回やろうてんだから役者稼業も大変だと、改めて思う。

それはそれとして、設定、見せ方には工夫もあり、クスグリのネタも面白いが、「メタル マクベス」という、想像力を刺激するカコいいタイトルの割には、シェークスピアの忠実なトレースに過ぎるような気がする。「メタル」が音楽以外の、キャラやドラマ展開にどんな位置を占めているのかがよくわからない。劇中、「メタル」に馬鹿にされ、利用される「パンク」が出て来て笑わせたが、いまにして思えば、もっとパンクな「マクベス」を、自分は期待していたのかなってこと。

橋本じゅんがコリン・ファレルに似てるのが気になった。

5月5日 松本

5日朝、家を出て湘南新宿ライン乗車。友人と合流。新宿乗換、スーパーあずさで松本。昼過ぎ到着。
駅の観光案内所推薦の信州そばの名店に向かうが、時すでに遅く、長い行列。方針変更、空いてるそば屋に入る。食後市内散策。古本屋多し。服の直し屋さんも。洗練された構えの店が目立つ。文化的歴史、成熟を感じさせる。城下町特有の落ち着き、気品が漂っている。信州大学の存在も大きいのだろう。官も民も一体で街を盛り上げようとしている感じがいい。

適当に切り上げ、浅間温泉に投宿。一息ついて後、再度市中に出かけ、市内観光を続ける。

松本市美術館。「海洋堂の軌跡展」開催中。ズーッと全国巡回してるのね。
海洋堂のおまけは沢山持ってる。まさかこんなところで遭遇しようとは、これも何かの縁と1000円払ったらクジ付き。引いたらスカ。何もくれない。オマケ無しかよ!
なんだか釈然としないまま見学。造形師のプロフィール紹介など面白かったが、どうもさっぱりしない。満たされない気持ちのまま、常設の部屋に上がれば、をを、草間弥生さんだ。

この展示が良かった。1950年代の若い頃の作品の、生身の危うさ。デリケートでニュアンスに富んだ表現。ドットがポジなら網目はネガ、と様式化される以前、不安感や切実さを定着させてる色の美しさ。思いがけない面白さにすっかり満足。2002年に行われた草間弥生展の図版を買う。この美術館、作り雰囲気共、かなり良い感じ。

5:30 まつもと市民芸術館 新感線「メタル マクベス」 
友人がチケットも宿も手配してくれるというので全部お任せでやって来た。脚本家宮藤官九郎のファンとしては、新感線用にマクベスをどう料理するか興味津々。期待も大。
若い女性が本当に多い場内、新感線の動員力もさることながら、この手のことに発揮される女性のエネルギーの大きさに感心させられる。席は16列目の中央。役者を真近に観たい場合は不満が残るかもしれないが、ステージ全体が無理無く視界に収まる。絶好のポジション。

箱根は朝

GWはじめの日曜日。朝6時半に家を出て箱根に向かう。
朝から西湘バイパスは伊豆箱根方面に向かう車が多いが、小田原経由国道1号に降りてからも流れは申し分無い。

湯本の温泉街を過ぎれば山の緑がぐんと迫ってくる。朝の光にきらめく新緑のトンネル。先行車も後続車も充分な車間距離を保ったまま、大平台から宮の下へと快適に走り抜ける。

宮の下には、古くはチャップリン、近くはジョン・レノンが泊まったホテルの、道路を挟んだ向かい側に町営の温泉がある。ここはアヂアヂだがきめ細かな源泉がゴボゴボとふんだんに溢れかえる掛け値無しの掛け流し。抜群眺望、豊富湯量、格安料金の名湯がある。以前はよく通ったが、開業時間が7時から9時に変ってからは足が遠のいた。

名湯の目印を横目に、宮の下のT字路直進し仙石原に向かう。宮城野あたりまで上がってくると、緑も新緑というより、未だプヨプヨとした新芽で、その頼り無い感じがいい。盛期は過ぎたとはいえ、遠くの山肌に点在する山桜の淡い色合いも堪らない。
道路も独占状態で、時折対向車がすれ違うだけ。うぐいすも驚く程近くで鳴いている。新緑の箱根路を堪能しつつ、仙石原の温泉についたのが午前7時を回った頃。道が空いていれば本当に近いのだ。

小さな旅館の立ち寄り湯。初めて利用する。こんな時間から大丈夫。料金1000円也。早速入湯。先行者2名に朝のご挨拶。光が差し込む浴場の湯船に浸かる。年寄り臭くて嫌なんだが、声にならない声がどうも出てしまうなぁ。白濁した湯はきちんとした熱さと柔らかい肌触り。配偶者に聞けば、女湯は庭園に面して広々としていたそうだ。この日は女性の泊まり客が多くいため、小さい方を男湯専門にしたらしい。湯質も環境も申し分無い。また来よう。

帰路は仙石から芦ノ湖を通り、旧道をくだることにした。まだ8時台、車もそれほど増えていない。快適に走り続ける。

50になったらオープンカーを買いたいと思っていた。50を過ぎてオープンカーを買った。スバルのビビオTトップという名の愛車は、発売当初某自動車評論家が平成の珍車と評したという4人乗り軽自動車。トップは3分割、リアウインドは電動で昇降するという優れもの。

数年前に中古をネットで購入した。早く乗りたくて新潟の中古車ディーラーまで引き取りに行ったものの、帰りの高速でエンジンが逝ってしまったという曰く付きの車だが、分相応な感じで気に入っている。湯上がり、新緑、山桜、芦ノ湖、空いた道、好天。久しぶりに屋根を取っ払って走った。

竜宮殿から湖畔沿いを抜け、途中ツツジで有名なホテルで湖上を走る海賊船を眺めながら朝食。スクランブルドエッグは自分の方が美味く作れる。ツツジが満開になる前の庭園を散策後、ショップをのぞいてから帰る。

旧道は眺めがまた格別。熟年ハイカーの姿も多く、サイクリストも頑張っている。畑宿を過ぎると対向車が増えて来た。そろそろ上りが込み始めてくる頃。三枚橋から一国に出れば上りは数珠つなぎののろのろ状態。休日の箱根は朝に限るのだ。帰着11時。

その後洗濯干したり新聞読んだり少しばかり片付けて、昼飯食べたら眠くなってついうとうと。朝湯もいいが、体力無いもんで、結局その後使いものになんなくなってしまう。

「最澄と天台の国宝展」

http://event.yomiuri.co.jp/2006/tendai/
バルラハを西洋美術館のロダンとカリエール展で相対化という手もあるが、バルラハには仏像彫刻の影響も強く感じられたので国立博物館の天台の国宝展にいくことにした。
去年の鑑真展以来の国博。鑑真程ではないが、それでも天台のお経、仏像、絵、曼荼羅等々、それも国宝、重文がざ〜くざ〜くざっくざくのありがたい展示なのだ。上出来の観客動員。

展示品の性格上、博物館といえども、参観者は宗教空間として対応すべきだろうが、それはなかなか難しい。どんなお宝でもひとたびお寺を離れてしまえば、宗教性も弱められてしまう。博物館で観る仏さんには、どうしても晒しもの感が消えない。

そんな状況にもまるで影響されず超然とされている強い仏さんもいるが、中には弱い仏さんだっている。物悲しそうな雰囲気で所在なさそうな佇まいの仏さんをお見受けすることもままある。そんな時こっちも見てはいけないものを見てしまったようなきまり悪さを憶えたりして、それやこれやで、結構気疲れしたりする。そんな目でみても、こんな時こそ一層生き生きして見えるのが神将足下の餓鬼等なのは確かだ。自分のような偽善者にはワルってどうしても魅力的なのね。

アートとして眺める面白さも、千手観音の腕の付け根を真近に眺められる楽しさも、こうした機会ならではだが、手間ひまかけてオリジナルな空間で見るのが基本だなどと、今更当たり前のことを思ってしまうのは、老老男女ひしめく会場の混雑に圧倒されるから。

エルンスト・バルラハ展

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/current_exhibitions_ja.htm
ドイツ表現主義ならカンディンスキー、ノルデ、シーレ、ココシュカぐらいは知っているが、エルンスト・バルラハってのは知らなかった。なんでも、20世紀ドイツを代表する彫刻家・版画家・劇作家であるらしいが、日本ではこれが初の回顧展だということで、知らなくてあたりまえなのだった。

修行時代の前半は素描と陶製のレリーフ、後半が彫刻と版画で構成された展示。回顧はコンパクトで、体力、気力的に丁度良かった。

絵が巧い。達者な線で批評性の高い表現。ロートレック的な辛辣さや都会的な洗練も漂わせている素描やデッサン。何を描いても様になっている。何でもできるからいろいろなことをやっている。

そんな修業時代を経て、生涯のテーマに目覚め、内省を深めていく中期以降には、巧さも都会的洗練も影を潜めて行く。人の形は量塊として捉えられ、骨太で逞しいフォルムに統一されていく。より深い静謐や静寂が、激しいエネルギーの発露が、単純化された形から放射されてくる後半の展示作品が素晴らしい。

単純な形象でメッセージ性も物語性も豊かな作品は、直にこちらの琴線に触れてくる。そこに、晩年はナチスの迫害により、不遇と失意のうちに世を去ったことが明示されて、出口に向かう時には、入る時には思っても見なかった気分で、バルラハの精神と作品の意味が一層重く感じられた。

「 サウンド・オブ・サンダー」

レイ・ブラッドベリ、ピーター・ハイアムズ、シド・ミードと並べば、SF好きならそりゃ見に行くでしょう。でも、見終わって納得満足するSF好きも少なかろう。バカSFもここまでバカだと、バカって言う方がばかなんだもーん。とか言われちゃいそうだし。
 
ブラッドベリを熱心に読んだのはかれこれ30年以上昔、原作の短編は読んだはずだが憶えていない。原作に忠実な映画化とうたわれているが、こんなギスギスしてお馬鹿な雰囲気にベラッドベリらしさはまるで感じられなかった。

タイムトラベルものとデザスター・ムービーをくっつけ、鬼面人を驚かす強引な趣向で観客を喜ばそうという魂胆のようだが、何というか、脚本が酷すぎたなぁ。主演のエドワード・バーンズはかすれ気味の声がセクシーで、なかなか魅力的。

「ミュンヘン」・「イーオン・フラックス」

「ミュンヘン」
素晴らしい。
緊迫感溢れたアクションスリラーであり、現代史の一断面を切り取ったドキュメントであり、優れた人間ドラマであるという充実した一編。ハッタンを遠望するラストシーンは、スピールバーグの苦渋に満ちた問いかけが結晶した名シーン。アカデミー作品賞取れなかったのは残念。
宇宙戦争とミュンヘンの2本を製作公開してしまう、この1年間のスピルバークは、まさに男盛りの脂の乗り切った仕事ぶりだ。

「イーオン・フラックス」
製作にMTVが一枚噛んでると思ったらMTVのアニメの映画化だそうだ。道理でマンガみたいなお話。シャーリーズ・セロンがブラックタイツでスパイダーマンみたいなアクションを見せてくれる。超管理社会の反逆者を描いたお話は特にどってことないが、ビジュアルとアクションは適度にSFで結構カッコいい。「トゥーム・レイダー」のアンジェリーナ・ジョリーのフェロモン過多に比べると、シャーリーズ・セロンはスマートで決めのポーズが美しい。アカデミー賞女優となってもサーヴィスショットを忘れないプロ意識もポイント高し。

「RIZE」
ロスで最も怖いエリア、サウス・セントラル。暴力と抗争が日常の若者たちから発生他したダンス・ムーブメント。超絶的グラインドで技を競い合うダンスバトルと共に紹介したドキュメント。何の予備知識も無く見始めたが、疲れの溜まった週末、ひと風呂浴びた後のレイトショー。直に眠くなって来た。ダンスというより痙攣と言いたいダンスシーンの迫力と、アメリカンドリームを熱く語る彼らの生活と意見はそれなりに興味深いが、睡魔も強烈。映画見ながら寝るのは気持ちがいいが、気がつけば、明るくなった客席には誰もいない。間抜けだ。こんなことは初めて。年取ったなぁ。

「スピリット」
ラバーズ、ヒーロー、プロミス、ときて今度は「スピリット」だと、中国映画に英語の題ってとっても気持ち悪い。配給会社も悪趣味が過ぎる。ましてや作品が優れていたらなおさらに。
という訳で、ジェット・リーの作品をそう沢山見ている訳ではないのだが、この作品のジェット・リーは今迄で一番カッコいい。香港映画のテイストを残しながら、見せ方作り方はきっちりと隙が無い。ジェット・リーが再生のきっかけをつかむ農村の美しい棚田の風景はこの作品一番の見所だろう。醜い日本人を演じる原田真人がラストサムライ以来の快演で中村獅童をきっちり引き立てるいい仕事ぶり。

2006/02/26

「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」


独軍の空襲が激しさを増すロンドンから疎開させられた4人兄妹が、田舎のお屋敷で見つけたタンスの奥に広がった不思議の国。

世界的な名著と言われても、長大と言われただけで尻込みしてしまう私のような軟弱者には、CG表現の飛躍的進歩によって「指輪物語」や「ナルニア国物語」のような作品が原作のスケールそのままに映像化されるようになった今の状況はとてもありがたい。安易な教養主義的お勉強の場としても積極的に利用させてもらっている。そうした手前、基本は公開初日に、先行があればそれを見ることで、一応の敬意を表しているつもりになっている。

なんて改まったことを言ってしまうのは、この「ナルニア国物語」がとてもいいお話だったからだ。この映画を見ているうちに、ファンタジーという言葉を、自分はこれまであまりに安易に使っていたのではないかと反省した。恥ずかしながら、時には、あり得ない、ことを揶揄するために使ったりしていたのだと気づかされたからだ。この作品に使われているファンタジーとは、本来、もっと美しく、なにより大事なものを意味する言葉だったのだと感じさせられたからだ。

退屈を持て余した4人兄妹が、不安や身勝手や甘えをぶつけ合いながら人として大切なものに気づき、経験を通して成長して行く。ただそれだけの、月並みで簡単で分かりきったことが、ライオンと魔女の世界を背景に語られるだけなのだが、4人兄妹の末娘を演じた女の子の、自然で表情豊かで、普通だけど非凡な様子を見ているだけで、その簡単の当たり前が何故か沁みじみと伝わってくる。この子はとにかく金メダル。表情と衣装、着こなしだけで人としての大事なものをしっかりと伝えるという凄いことを易々とこなしてしまうのだ。

清々しい子ども達と美しい映像。センス・オブ・ワンダーと判り易さで展開するお話。流石ファミリームービーの雄、ディズニーの歴史と伝統に照らしても最高峰に位置するスケールと品格を示して「ピーターパン」クラスの、これは傑作。

プロミス 無極


真実の愛は得られぬ代わりに、豪華な暮らしを与えよう。と神様に問われ、契約書にイエスとサインした少女。長じて王妃となるがつかの間、王は倒れ、無敗将軍、冷血の貴族の求愛に揺れ動く。しかし真の愛の行方は将軍の奴隷が握っていた。さあ、どうなる。

思いっきり派手な絵作りで展開する超観念的なファンタージー。絶世の美女を巡る男の確執。こういう設定は好きだ。派手な絵作りも大好き。わざとらしくても嘘っぱちでも全然かまわない、ビジュアルとしてリアリティーがあれば何でも可でしょう。絵空事の大嘘つきの極限を目指すかのようなこの映画の行き方は大歓迎です。

だから、多用されるCGが、FFシリーズのイベントムービーのようでも気にならない。水牛のスタンピードと奴隷の疾走が随分情けないCGでも、真田広扮する無敗将軍の華麗な鎧兜の美しさの前に許せてしまう。

何というか、欠点は多いが、空間の抜けが気持ちよい画面からは、語りたい意図とか、絵作りの志とかがそれなりに伝わってくるようで、大概のことは許容しようと言う気にさせられてしまう。それと、三人の男優がなかなかに魅力的なのだ。真田広之は丁重な扱いでスターの華やかさを発散している。チャン・ドンゴンはともかく、ニコラス・ツェーの冷血振りが凄く良くて目が離せなくなった。

しかし、セシリア・チャンって人には、この魅力的な男達を引き回すほどのヒロインとしてのオーラが最期に至る迄感じられず、クライマックスでも切なさ感動が盛り上がらなかった。もっと感情揺すぶって欲しかったのに。アン・リーの「臥虎蔵龍」が、よくも悪くもその後の作品に与えている影響の大きさが今更ながらに感じられるが、プロミスという邦題の安っぽさに違和感が無いのがこの作品の限界だろうか。ま、男達の熱演、特にニコラス・ツェーの美しい悪党振りの楽しさで全部相殺だ。

ウォーク・ザ・ライン/君につづく道


ラジオからジョニー・キャッシュが流れていたのは大昔のこと。憶えているのは「16トン」。あれが大ヒットしてたのは、それこそ「三丁目の夕日」の頃だ。日本の団塊オヤジがノスタルジーをくすぐられるくらいだから、この映画、年配のアメリカンには堪らんだろうなぁ。

南部の貧しい農家の次男坊。出来のいい兄ほどには父親から愛されない疎外感を抱えながら、ミュージシャンとして大成功をおさめる。が、そこには不幸も挫折も準備されていた。
「エデンの東」のジェームス・ディーンのその後、といったお話の流れではあるが、それはともかく、ジョニー・キャッシュのデビューから全盛期へと、ライブ感に溢れたステージ場面やハードなコンサートツァーの様子、若きエルビス登場のサービス等、ふんだんに織り込みながら、彼の生きた時代と半生とが描かれる。

リヴァー・フェニックスとの関係など、人ごとでない感じもあったかも知れないホアキン・フェニックスが演じるジョニー・キャッシュの屈折は、そっくりさん的では無いところに却って説得力があり、さらに、西海岸風なコメディエンヌという印象が強かったリース・ウイザースプーンが、作品のダークなトーンを明るく照らしかえすヒロインとして魅力的に輝いているのにも感動した。極端な汚れ役でリニューアルというのはよくある手だが、こんな風に柄を生かした新境地というのは相当に難易度が高いのではないだろうか。

音楽映画として、歌をしっかり聴かせてくれたところもこの映画の大きな魅力だ。主演の二人も吹き替え無しの自前の歌唱だという。確かに吹き替えなんかいらないくらい二人とも上手い。
2時間16分という長尺を、だらけず飽きさせず見せ、語りきったスタッフの力がスクリーンの隅々に漲っている。そのエネルギーが一直線に観客席に届く。ジョニー・キャッシュのかっこよさがドーンと伝わって来て泣けた。

原題:Walk the Line
監督・共同脚本:ジェームズ・マンゴールド
共同脚本:ギル・デニス
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:T=ボーン・バーネット
出演:ホアキン・フェニックス、リース・ウィザースプーン、ジェニファー・グッドウィン
2005年アメリカ映画/2時間16分
配給:20世紀フォックス映画

2006/02/12

オリバー・ツイスト


パーフェクトだった「戦場のピアニスト」。
あんな作品を作ってしまった監督の次の仕事となれば、これは見逃せない。勇んで出かけたが1週間の疲れが出たか、タイトルも終わらないうちから眠くなってきた。オリバーが救護院に入れられるあたりで、こりゃまずいと思ったが、気が付けばオリバーは救護院から抜け出すところ。どれくらい気絶したか知らないが、大した時間でないのは確か。なのに眠気は消えてすっきりした気分。ラッキー。後はじっくり画面に集中できた。

巨大オープンセットに往時のロンドンを再現したというだけあって、重量感たっぷりで安定感にも不足のない迫力画面。ロンドンの町並みに猥雑なエネルギー発散した人々が溢れかえる。いかにもディッケンズ的と思わせる登場人物達の顔顔顔。ベン・キングスレイの特殊メークも見事な仕事だが、これだけの顔を集めたキャスティングディレクターの手腕も大したもんだ。さらにリアルな衣装がより一層の効果を醸し出す。力のある仕事師達が約束してくれる魅力と快感。

オリバーのロンドンは、浮浪児達は食うために悪事を働かざるを得ず、親方は浮浪児達をこき使って搾取に余念がない。いってみれば福祉教育予算は切り詰められ、企業は契約パートで労働力を搾取する一方という、何だか二極化現代日本を彷彿とさせる社会なのだった。浮浪児オリバーは、一時は腕のいいドロボーとして将来を嘱望されるが、運命のいたずらからシンデレラボーイとして活路を見いだす。

ついこの間までなら、このハッピーエンディングは物語の締めくくりとして何の問題もなかったのだろうが、善良な心と天使のような愛らしさ故にオリバーだけが救われ、他の子ども達が捨て置かれるような印象は、今時、何か納まりが悪い。第一あのおじさんが実は不届きな小児性愛者だったらどうするのか。なんて考えが頭をよぎる己の品性疑りながらも、それもこれも、時代の病理の深さ故さと、自己弁護してみる。


原題:Oliver Twist
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロナルド・ハーウッド
撮影:パベル・エデルマン
出演:バーニー・クラーク、ベン・キングズレー、ハリー・イーデン
2005年フランス=イギリス=チェコ合作/2時間9分
配給:東芝エンタテインメント、東宝東和

単騎千里を走る


息子との積年の不仲に悩む父親。伝統芸能の仮面劇を求めて、頼りない通訳を頼りに、中国奥地を旅する寡黙な男。予定も計画も思い通りにならない土地で、立ち止まることはあっても、決して引き返しはしない。忍耐強く、着実に歩を前へと進める健さんなのだ。

様々なシチュエーションと背景を用意して、そこにじっと佇む健さんの姿を絶妙のポジションで配置する。ストーリーもそのために奉仕している。中国の大地に拮抗する健さんの立ち姿。言葉もアクションも表情も無く、立ち尽くす背中から伝わってくる万感の思い。うーん、健さんはいくつになっても健さんなのだ

チャン・イーモウは本当に健さんが好きなのだなぁ。好きが嵩じてプロモーションビデオを作っちゃった。健さんファンが、健さんのために作った熱烈ファンレター。これはそういう映画だ。
チャン・イーモウとして上出来の作品とは決して言えないが、想いの深さはしっかり伝わってくる。

最後に、健さんは少年の目線に合わせてしゃがみ込むのだが、その所作の切れと姿の美しさには痺れた。健さんの全盛を知らない若い人に、70も半ばの俳優の、この美しさは通じるだろうか。



原題:千里走単騎
監督・原案:チャン・イーモウ
日本編監督:降旗康男
脚本:ヅォウ・ジンジー
撮影:ジェオ・シャーディン、木村大作
出演:高倉健、リー・ジャーミン、寺島しのぶ、中井貴一
(2006年日本=中国合作/1時間48分
配給:東宝

最終兵器彼女


「オリバー・ツイスト」初日の最終回を観ようと出かけたが、免許取り立ての愚息1号が混んだ駐車場で難儀してる間に上映開始時刻を回ってしまった。ほんじゃ、ま、次善の選択ってことで、高倉健先生の単騎千里か、J・フォスター女史の飛行計画。あまり食指は動かないけどゾロって手もある。だけど、どれも上映開始迄30分以上あるのがよろしくない。

ん、あと10分で始まるあれ、どう?「最終兵器彼女」。題名は聞いた事あるが、内容は知らん。何か面白そうな気配もあるんじゃない。だったらめっけもんだ。んじゃ今日はこれにしよう、てんで切符を買った。

何故か判らないが日本は戦争のだだ中にあり、何故だか判らないが彼女は「最終兵器」として戦争の中心にある。しかし彼女は消失点に向かって動きだし、その運命は誰にも変えられない。と、こんな感じの設定で、不治の病を「兵器」に置き換え、そのミスマッチ感でみせる、セカチューな純愛ドラマ。

SF的な絵作りは結構楽しめるが、時間のほとんどとアップを多用して描き込んだ純愛ドラマ部分は恐ろしく陳腐で退屈。恋愛にリアリティーが無く、僕を演った少年にとことん魅力が無いのも観ていて辛かった。

だが、これは、身の程知らずに迷い込んだオヤジの妄言、筋違いも甚だしい暴言かもしれない。おそらく、製作側や「最終兵器彼女」ファンにとっては、こうでなくてはならない、といった必然性ある役者の起用や脚本演出なのかもしれん。だったら嫌だな。

2006/01/20

ロード・オブ・ドッグタウン


70年代、干ばつによる給水制限が行われた夏のロサンゼルス。高級住宅地のプールも軒並み干上がっていた。そこに目を付け、スケートボードの格好の遊び場としたストリートキッズ。彼らと彼らが創りだした挑戦的なライディングは、やがてスケートボードそのものの在り方を一新するうねりとなって全米に波及する。少年達が押し広げたマーケットに生まれたビッグビジネス。純粋な遊びから生まれた名声と高額な報酬。少年達の行き方が大きく左右されていく。

以前見た、ベニスビーチの小さなサーフショップで結成されたチーム「ゼファー」と、彼らが巻き起こしたスケートボード革命を描いた『DOGTOWN & Z-BOYS』というドキュメント映画。これが滅法面白かった。サーフィン、スケボーに関心はないが、この映画のZ-BOYSのワイルドな軌跡は痛快で切なく、月並みを言えば、青春の輝きと痛みが月並みでない映像で描かれていた。

あれを見ていなかったら、この映画には何の興味も持たなかっただろう。ドッグタウンという響きが気になって、仕事帰りについ見てしまった。まさに、『DOGTOWN & Z-BOYS』がそのまま映画化されていた。スケーボーのパフォーマンスが、音楽の使い方と併せてリズムの良さとダイナミックさで見応えがある。ドラマとしても青春映画の魅力、面白さがぎっしり詰まっている。

チーム「ゼファー」のカリスマを演じるヒースレジャーがとてもいい。若手3人の個性の違いもバランス良く、それぞれの変化成長が明確に演じられて魅力的。シドも重責を良く果たしていた。少年の母親を演じたレベッカ・デ・モーネイの役者根性にも刮目。

当時の社会状況や風俗が細部にわたって再現され、ロングショットの街頭風景にも不自然さが無い。若手俳優ばかりで、一見低予算にも見える作品だが、決してそんな事はない、必要十分な金と熱い想いに裏付けられ、入念に作り込まれた価値ある作品。

2006/01/18

歓びを歌にのせて


世界的な指揮者として頂点に立ちながら、身も心も廃人同様になってしまった男。全てを捨てて田舎へ隠遁するが、高名なマエストロを人は放っておかず、村の教会は聖歌隊の指導を依頼された男は、気の進まぬままに引き受ける。

スポ根ジャンル映画のお約束と言える滑り出し。この先、挫折した主人公が弱小チームを率い、苦難を乗り越え勝利へ導き、自己再生も果たす。という王道の展開かと思えば、基本的にはそうなのだ。このジャンルなら、コメディ、シリアスの如何を問わず、数多くの優れたファミリームービーを送り出して来たアメリカ映画。その水準に届いてるか。いや方向が全然違う。

例えばディズニーなら、勝利とは成功と正しさの証、というシンプルな価値観から生まれる興奮とカタルシスを間違いなく提供してくれる。ところが同様な設定と展開をみせながら、このスウェーデン映画が伝えてくる感触は全く異なっていて、例えば「天使にラブソングを」に見られるような興奮やヒロイズムは陰も形も無い。

特徴的なのは、人が全て等価な存在として描かれていること。もちろん、主人公は細部を描写され、内面も掘り下げられ、中心人物としての機能を果たしているのだが、他の人たちより価値ある存在として描かれてはいない。牧歌的な村人達も、善良さと同時に、無知で傲慢で偽善的で粗野で身勝手な面も併せ持つ、普通の人間として描かれている。指揮者と聖歌隊の人々を淡々と描きながら、人は、老いや若さや貧富や能力などによって差別されない。といったことを自然に伝える映像の力。

夫の暴力におびえる妻。夫の偽善に絶望する牧師の妻。主人公に好意を寄せる若い女性。この映画を支えている3人の女性を見つめる眼差しには、優しさと鋭さが感じられる。そこにはこの監督の人間的なスケールが如実に現れているようで、暴力も傲慢も嘘も、つまりは人を傷つけるだけの愚かな行いと、穏やかに、しかし毅然と示す彼女等の表情が胸に迫ってくるのだ。

音楽映画の体裁であり、音楽的な見せ場はあるが、特に音楽で無くとも成り立つ物語だと思いながら見ていたが、最後の最後になって、音楽でなければならない理由が、音楽であることの必然が明らかになる。お約束通り、訓練を積んだ聖歌隊は、最後にコンクールで勝利を収めるのだが、この勝利が並の勝利ではない。敗者のいない勝利というのは矛盾極まりないが、聖歌隊はこの奇跡を思いがけない形で成立させてしまう。この決着の付け方の鮮やかさには脱帽させられた。イノセントな魂の回帰を示すエピローグも美しい。

何かの犠牲の上に成り立つ勝利など、本当の勝利では無い、と優しく穏やかに言われるような作品。

これは蛇足だが、主人公のダニエルには明らかにキリストのイメージが込められている。そのつもりで思い返すと、主人公の描き方はもちろん、聖書のエピソードや登場人物に符合すると思えるところがいくつもある。

2005年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品

監督・脚本:ケイ・ポラック
出演:ミカエル・ニュクビスト フリーダ・ハルグレン
   ヘレン・ヒョホルム レナート・ヤーケル
2004年/スウェーデン/132分
配給:エレファント・ピクチャー

2006/01/15

博士の愛した予告

寺尾聡の博士が、痛切極まりない様子で「僕の記憶は80分しか持たない」と深津絵里に訴える予告編には強い不信感が生じた。

原作は始めの方を読んだきり本がどっかいっちゃったので読了してないのだが、そうなのか?博士の愛した数式ってそんな感じなのか?

なんか原作者の精神から相当かけ離れているような印象を受けるんだが、映画化だから原作から解放されるのも当然とは言え、でもさ、何ともベタで底の浅い感じの映像にどん引きさせられた。

性善説的な寺尾聡より、どこか底知れない性悪説的な柄本明あたりの方がいいと思うのだ。

THE 有頂天ホテル


土曜日の午後。地元シネコンの一番大きいスクリーン、初日2回目の上映に観客七分から八の分の入り。この出足のよさ。こりゃ大ヒットではありませんか。三谷幸喜人気、中高年層からの支持率が高いのも特徴的。年末から「古畑ファイナル」への期待値を高め、年始は3夜連続の高視聴率で盛り上げ、その勢いにのせて大公開の「THE 有頂天ホテル」。フジは計算通りのヒットに笑いが止まらないだろうが、観客を笑いが止まらない状態にさせてくれるかどうかってことで。

新年のカウントダウンを2時間後に控えた老舗ホテル。滞在客の数だけあるのがトラブルの種。まだ芽のうちに摘み取ればよろしいが、花や実にしてはホテルの恥。ホテルの誇りと名誉にかけてお客様を守り抜くのがホテルマンの心意気。という次第で、次から次へと発生する珍問奇問無理難題をあらゆる手段で乗り越えようとする人々を豪華キャストで描いたグランド・ホテル型コメディ。

数多い登場人物が描く複雑な相関図と多彩なエピソード。言ってみれば2時間にワンクールのTVシリーズのゲストとエピソードを丸ごと全部詰め込んだような内容を、よく整理した脚本と淀みない演出で巧みに捌いている。タイムリミットが4時間程度の設定ならともかく、2時間の出来事とするのは苦しいとは思うが、すっきり判り易く楽しませてくれるのは素晴らしい。

三谷好みの役者を自由自在にキャスティング、それぞれの個性と持ち味を生かした見せ場をきっちり用意し、ストーリーの流れにも無理無く乗せている。目配り気配りの行き届いた、おしゃれで品のある脚本だ。起用された役者さんもさぞ嬉しかろうと容易に想像がつく。

川平慈英のウエイターやアリキリのホテル探偵など、小粋なシチュエーションコメディーとしてアメリカンテイストが求められるところなのだが、意外にダサくてシティー感覚が備わらないという難点もあるし、アヒルの使い方も成功しているとは言い難いが、芸達者な豪華出演者の個人技はたっぷり楽しめる。中でも素晴らしいのが篠原涼子とYOUの二人。いや、篠原涼子は本当巧いし魅力的。最後に場面をさらうYOUの存在感はテレビより映画に向いている。

つらくてもしんどくても夢と希望と残り時間がある限り、諦めないでやり抜こうか。って感じの前向きなメッセージも正月気分にフィットして、気分一新のリセット感と共に出口に向かえる優良作品。

「みんなの家」の夫婦が灰皿で食事をして花を添えたり、近藤と芹沢が抱き合ったりの三谷ならではの遊び、ファンサービスも楽しめる。


監督・脚本:三谷幸喜
撮影:山本英夫
音楽:本間勇輔
出演:役所広司、松たか子、香取慎吾、佐藤浩市、唐沢寿明、西田敏行ら。
2006年日本映画/2時間10分
配給:東宝

2006/01/09

Mr. & Mrs. スミス


スリリングな出会いがロマンスに転じ、相手の正体を知らずに結婚した殺し屋同士。数年後には退屈な日常から倦怠期に突入したが、ひょんなことから暗殺仕事で鉢合わせ。今度は死力を尽くして殺し合うことになる。

犬も食わない夫婦喧嘩を、ロマンティックでゴージャスな味付けで、大げさなアクションコメディーにして見せるアイディアがドンピシャのキャスティング。あり得ない設定の夫婦を演ずるブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが実に楽しそう。「ボーン・アイデンティティー」で男を上げたダグ・リーマンの演出も洒落たテンポでそつがない。

倦怠期の夫婦が殺し合いながらお互いを再発見して行くというのは暗示的だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの殺し合いを見ていると、倦怠期も悪くないな、結構羨ましいななどと思わせる程におされなロマンティックコメディーになっている。やってることはめちゃくちゃだが、本質はどの夫婦も経験のある月並みってことで、スミスという名前も効いている。

原題:Mr. & Mrs. Smith
監督:ダグ・リーマン
脚本:サイモン・キンバーグ
撮影:ボジョン・バゼッリ
音楽:ジョン・パウエル
出演:ブラッド・ピット、アンジェリーナ・ジョリー、ビンス・ボーン
2005年アメリカ映画/1時間58分
配給:東宝東和

LAハードボイルド


著者:海野弘
発行:平成11年11月20日 第1刷
価格:2381円+税
グリーンアロー出版社
著者は美術から映画、音楽、都市論、小説まで守備範囲の広さで知られる評論家らしい。この本はカリフォルニアオデッセイと名付けられた、全6冊からなる(アメリカを読み直す)叢書の1冊目。サブタイトルに世紀末都市ロサンゼルスとあり、二十世紀の終末を示す最も現代的な都市LAの歴史を解き明かすことで未来の都市像を考察する。という意図のもとに、ハードボイルド小説からLAの闇を読み解いた本、ということになる。

中身は全3章仕立てで、1章 チャンドラーのロサンゼルス で1939年(大いなる眠り)から1958年(プレイバック)までを、2章 ロス・マクのロサンゼルス で1949年(動く標的)から1973年(眠れる美女)まで、3章 LAノワール では(血まみれの月)から(ホワイト・ジャズ)まで、エルロイが描いた歴史と闇からLAを通観している。

これまで単なる楽しみで読んできた本が、見事な文献研究の成果にまとまっているのを見ると、いろいろなこと考えてしまうが、それは置いといて、本の要約が巧みで昔読んだ時の記憶が甦る。特に、ロス・マクは後期、社会派の色彩を深めてから気持ちが離れたが、「さむけ」の面白さなどしっかり思い出し、改めて読み直し追悼の意を捧げようか、というような気持ちにさせられた。

この中で面白かったのは、「長いお別れ」のテリー・レノックスは、チャンドラーにとってのロサンゼルスそのものでなのあり、「ロング・グッドバイ」とは、もはや昔のようではなくなったLAへの決別の言葉なのだから、最後の「プレイバック」の舞台がLAがでないのは当然なのだという指摘。納得した。チャンドラー自身、晩年はラ・ホヤへ移っている。

とても好くまとまっていて、判り易く読み易い。惜しむらくは、LAの今を書き続けているマイクル・コナリーにスペースが割かれていないこと。ロス・マク以降がエルロイだけではノワール方面にバイアスがかかり過ぎて、バランスの悪さが否めない。

胸キュンバトン

Q1 胸キュンするポイントは?
 
 「健気」例えば、孤独で不器用な少年が頑張ってるてな感じ。    

Q2.憧れの胸キュンシチュエーションは?

 君がみ胸に抱かれて聞くは夢の舟歌 恋の唄ーー  名曲「蘇州夜曲」の甘さ切なさ美しさ。

Q3.胸キュンしちゃう言葉は?
  
 「願っていたんだ」
  
微妙な段階を迎えて相手の気持ちをはかりかね、互いに逡巡 しつつ、やはり一緒に前へと踏み出そうと決めた男と女。
週末をリゾートで過ごそうと男が誘う。異論は無いが、今日の 明日では予約がむりだと諦めようとする女に男が言う。
「とっくにおれが予約しているよ」
自信たっぷりな男を揶揄するように女が言う
「戻ってくると判っていたんだ。あなたは暇をつぶしながら私 が戻るのを待っていたわけね。眠れない夜も驚きもなしに」
首を横に振りながら男が言う。
「わかっていなかったよ、シ ルヴィア」「願っていたんだ」
 
クーッツ 痺れる。泣ける。
強情で正義至上で向こう見ずでユーモアの欠片もない警官が 漏らしたこの一言。ボッシュ君についていこうと決心した、マイクル・コナリー「ブラック・ハート」最終行の名台詞 
  
Q4.聞くと胸キュンしちゃう曲は?
 
 1「ケルン・コンサート」キース・ジャレット 
その昔、ツーリング途中に立ち寄った地方都市のとある喫 茶店で流れてきた。疲れた体にピアノの音がジワッと沁み てき、心身が静かに満たされたような感じがした。以来落 ち込んだ時も疲れたときも元気なときも何でもないときもよく聞くが、始めの音にはいつも胸がキュンとする。

 2「早春賦」
唄は憶えど時にあらずと声を立てず、という谷の鶯の姿に胸を衝かれる。

 3「春よこい」松任谷由実 
日本の叙情歌の頂点を極めた作品だと思う。編曲も素晴らしい。

Q5 胸キュンする有名人 5人
  
  1.レティシア(冒険者たち) 
ジョアンナ・シムカスですね。この映画はリノ・バンチュラもアランドロンにも胸キュンでした。
  
  2.パトリシア(勝手にしやがれ) 
ジーン・セバーグですね。完璧です。
  
  3.阿修羅像 (興福寺)  
悲哀と怒りの、類い稀な美少女です。 
  
  4.ナジャ(アンドレ・ブルトン)
ブルトンは嫌いだけどこのナジャは別格。 
  
  5.ウディー・ストロード。全然有名じゃないんだけど。

Q7 今まで生きてきて一番の胸キュンは?
    
説明できない。

Q8 「胸きゅん」に仮に呼び名をつけるとしたら?
    
時間よ止まれ

Q9 胸キュンしたときに心でする音は?
    
   ザンパーーノーー!

SAYURI


柳橋も祇園も吉原も一緒くたになったような異空間「はなまち」の売れっ子芸者コン・リーは、ナンバーワン芸者ミッシェル・ヨーと台頭するチャン・ツィイーに激しい対抗意識を燃やしていた。伝統としきたりに生きる女達が、誇りと名誉と実利をかけて繰り広げるサバイバル。

「芸者の思い出」とは一体どんなお話なのかと思ったが、要は少女が「旦那」への一途な愛を貫いて幸せを手にするというシンデレラ物語なのだった。

風格あるミッシェル・ヨー、チャン・ツィイーも少女から大人へと立派な芸者振り。しかし悪役コン・リーが馬鹿な性悪女としてしか描かれないから、女同士の対立はバランスが悪く、ドラマは深まらない。

渡辺謙は儲け役を気持ち良さそうに演じ、役所広司も特徴あるキャラクターだが、両者行動に説得力が無く、魅力的とは言い難い。それやこれやで、役者はよくやっているのに、行動に聡明さが欠けているため、映画全体に頭が悪そうな雰囲気が漂っていたのは残念。

素材的には五社英雄。「臥虎蔵龍」を思い出したのはミッシェル・ヨーとチャン・ツィイーの競演だからではなく、ヨーヨーマのせい。チャン・ツィイーの少女時代を演じた女の子がかわいくて印象的。展開が早く映像も美して、思っていたより楽しめた。

原題:Memoirs of a Geisha
監督:ロブ・マーシャル
脚本:ロビン・スウィコード、ダグ・ライト
撮影:ディオン・ビーブ
出演:チャン・ツィイー、渡辺謙、コン・リー
2005年アメリカ映画/2時間26分
配給:ブエナビスタ、松竹

2006/01/06

古畑任三郎ファイナル 第3夜

キザでおしゃれな「鬼警部ブルガリ三四郎」が活躍する人気ドラマの打ち上げに招かれた古畑任三郎。美人脚本家に寄せる淡い恋心。ついに明かされるか、古畑の知られざる私生活、と言った趣で幕を開けたファイナル。

古畑の最終章に相応しい犯罪は何?。もちろん三谷殺し。犯人は誰?。もちろん三谷自身。なるほど、双子の美人脚本家はそういうことか。古畑がTV製作の裏側を舞台に、松嶋菜々子に姿を変えた三谷幸喜を追いつめる。

スポットライトの輪の中から歩み去る古畑を捉え続けて来たカメラが、今日は古畑と脚本家のラストダンスを愛おしむように写しながら静かに遠ざかる。古畑の姿が小さくなっていく。古畑が去るのではない。我々が彼の世界から退場するのだと気づかせてくれるラストシーンが美しくも切ない。

ハイセンスで心優しい趣向を堪能させてくれた3夜連続のファイナル。新年早々とても豊かな気分にさせてくれてありがとう。

古畑から「鬼警部ブルガリ三四郎」がスピンオフするってのも面白いな。愚息2号に同意を求めたが、脚本家が捕まっちゃったんだからそれは無いだろ。とたしなめられた。そっか。そうだったな。

2006/01/05

古畑任三郎ファイナル 第2夜

エエッ、向島巡査はイチローの異母兄だったんだ。イチローの登場とともに明かされる衝撃の真実。ナンセンスな笑いで一気に作品世界に引きずり込む。つかみの鮮やかさの、何と小気味の良い。

前夜のコメディータッチとは打って変わったシリアス路線。
嘘はつかないフェアな殺人者。俊足で人目をかわし、レーザービームで証拠隠滅を図る。三谷幸喜が手を変え品を変え、イチローならではの完全犯罪を構築する。

野球選手の余技とは思えない演技でこれに応えるイチロー。余人の想像を越えた境地に立つ天才の厳しさを、人気TVシリーズ中の犯人像として生かし、余すところ無く描ききる。

三谷幸喜の遊び心とイチローの冒険心を豊かな実りに結実させた製作陣。まさに大人の魅力堪能させてくれた第2夜だった。
いよいよ今夜はファイナルバトル。

2006/01/04

古畑任三郎ファイナル 第1夜

「新撰組」!を録画に回し「古畑ファイナル」の第1夜を見る。

東京都下の鬼切村、旧家の次男坊藤原竜也が当主となった実兄を殺す。そこに古畑が乗り込んで、というお話。旧家のドロドロ、雪の密室、童歌の見立て殺人と、もろ横溝正史な設定。

ヘラヘラした笑いで狂気をはらんだ犯人を演じる藤原竜也が実に巧い。西村・今泉がうれしい。田村正和も十八番の風格。

横溝物のパロディーとして笑わせる中でも、極めつけは見立て殺人の本歌「あの世節」!を、歌う吉田日出子。あへあへあへあへ、と意味不明な歌詞を、凝ったメイクで繰り返す不気味な老婆に可笑しさ炸裂。

金田一の小ネタ満載の遊び心横溢した中でも、吉田日出子の老婆は岸田今日子に匹敵する素晴らしさ。これ、シリーズを通じて出色の珍場面だろう。

こうした遊びをしっかり仕込んで、古畑対金田一のクライマックスへと盛り上げていく。実に、作り手のやる気と心意気が伝わってくる楽しさ面白さだった。

今夜はイチローだ。