2007/08/28

ベクシル

近未来、機械生命体が支配する鎖国日本にアメリカから特殊部隊が潜入して、というストーリーをフルCGの3Dで描いたアニメ。

「マトリックス」以降の設定としては「マトリックス」を越えるものが見たいし、ましてやアニメならイメージも映像処理にも「マトリックス」以降を感じさせて欲しい。しかし、既視感のある設定やイメージばかリが次々に繰り出される。

モーションキャプチャーで人間の動きは滑らかだが、それが即アニメ的なリアリティーとして感じられるというものでもない。ジャンクな機械生命体の集合した怪物など、砂の惑星のサンドウォームそっくりなのも気になった。

CGを使ってこんな凄いこともできるんだよ、という作り手の意気込みは感じるが、創造性や独自性に乏しく、絵もキャラクターも薄っぺらでまったく楽しめない。絵に血が通わない、生きてない。一言で言うなら、人間が描けてないのだ。

悪党のキャラは明らかに松田優作だが、肖像権クリアしてるのか?

監督:曽利文彦
脚本:半田はるか、曽利文彦
音楽:ポール・オークンフォールド
出演:黒木メイサ、谷原章介、松雪泰子、大塚明夫、櫻井孝宏、森川智之、柿原徹也
2007年日本映画/1時間49分
配給:松竹

遠くの空に消えた

行定勲監督は「GO」が素晴らしかったから、それ以降も「セカチュー」「北の零年」「春の雪」等期待して観てきたが、期待に応えてくれた作品があったかと言えば期待に背く作品ばかりだった。でも、今回は何となく期待できそうじゃん?って気がして観に行った。やっぱりダメだ。しかも「北の零年」並の惨状だ。

企画に7年かけ、子ども目線で描いたか見て欲しいか知らないが、行定監督はどうやら意味不明なことや、ご都合主義や、いい加減なことや、自己満足さえファンタジーであれば通ると思っているらしい。実にファンタジーに対する冒涜と言うしか無いなぁ。

実に2時間24分を使いながら、ZONEのSecret base〜君がくれたもの〜 の5分の感動にも及ばぬ哀しさに、怒りより脱力感が勝る。ほんとにがっかりだ。「GO」の感動は結局クドカンの力に帰すものだったとようやく思い定まった。

監督・脚本:行定勲
撮影:福本淳
美術:山口修
編集:今井剛
出演:神木隆之介 大後寿々花 ささの友間 三浦友和 大竹しのぶ 小日向文世
時間:2時間24分
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
編集

納涼大歌舞伎 第三部 裏表先代萩

歌舞伎の様式、演出ってのは、何から何まで判りやすさ至上主義で成り立ったものとつくづく感心させられる。裏表先代萩は時代物と世話物のいいとこ取りで見せ場をまんべんなく並べ、観衆へのサービスに徹した出し物のようで、四幕六場にわたって多彩な演出パターンが繰り出されて、自分のような初心者には最小努力の最大学習経験が得られるお得な演目だった。

幕が開いて、七之助がいきなり花水橋の大立ち回り。花水橋、いつも渡ってる橋なので驚いた。あそこはそんな出来事があったのかと感慨を新たにするまでもない。フィクションなのだ。なーんだ。

勘三郎の達者な小悪党ぶりを楽しんだ後、今度はお世継ぎの乳母に扮した勘三郎を従えた子役二人の、空腹抱えた健気な芝居に会場が大いに湧いた。いや子役の使い方の巧いこと。可愛さたっぷり見せといて、陰謀奸計の渦巻く世界に生きる悲哀を溢れさせる。あざとさに感心もしたが、一番気になったのは、上手の台の上に座った義太夫語りと三味線の二人、正座しているように見せて、実はダミーの膝で身じろぎもせず演じているのが気になってしかたがない。下がるときはどうするかしかと見届けようと思いながら、乳母政岡の勘三郎にすっかり気を取られてる間に見損なってしまった。

福助、扇雀、勘三郎の競演も艶やかなもの。勘三郎は更に余裕で仁木弾正を演じる大活躍でたっぷり楽しませてくれた。ま、多彩過ぎて統一感に欠けたきらいはあったかな。それにしても、平日夜の観劇は疲れる。翌日の仕事に影響しそうなので、今後は週末だけにしとこう。

2007/08/26

夕凪の街 桜の国 

実直で健気な麻生久美子と品よく控えめな藤村志保の佇まいが美しい。被爆から13年後の広島、この二人が柔らかに演じる母娘の暮らしぶりが丹念に描かれて、当たり前の暮らしを送れることの幸せが観客にしっかり伝わってくる。幸せになることに対する後ろめたさに苦しみ、被爆とは、誰かに死ねばいいと思われたことであり、生き延びたことは、その悪意に晒され続けていることだという麻生久美子のつぶやきには脳天どやされた気がした。麻生久美子のベスト作品だ。

夕凪の街から桜の国へと転調し、田中麗奈の軽快感に中越典子の情緒が適度に絡んで、テーマの重さをサラッと受け止める後半、前半とのコントラストを生かしながら、前へと踏み出そうとする若々しい意志を浮かび上がらせる。前半の言葉は新鮮だった。言い方には工夫がある。原作が名の知れたマンガとは知らなかった。読んでみよう。

監督・脚本 : 佐々部清
原作:こうの史代
出演: 田中麗奈 麻生久美子 吉沢悠 中越典子  伊崎充則  金井勇太  藤村志保 堺正章

編集

2007/08/20

森村泰昌 展 横浜美術館

自分自身を素材に、誰でも知っている名画や有名人なら年齢性別を問わずになり澄ます。初めて知った時はスキャンダラスでいかがわしい表現にインパクトも強烈だったが、その後も広がりのある表現を展開し、今や森村泰昌という確固としたジャンルとして成立している。その森村が、自身の表現の何たるかを、自らの解説付きで美術の授業に見立てて展示しようという、作品と展示方法が遊び心と自己顕示とに対応する、いかにもバランスのよい企画に見える。

1時限のフェルメールから6時限のゴヤまで、美術史を飾る名画になり澄ました森村が、その狙いと方法をお惜しみなく開陳し啓蒙を図る。ふーん、画面そのままを原寸大で再現し、CGでまとめたフェルメールに感心した。2時限目はゴッホのなり澄ましに使われた紙粘土の顔面と釘の帽子を軸にした名画セット。ゴッホの帽子にもグッときたが、ベラスケスのマルゲリータ像のセットは、なり澄ます為に示されたエネルギーがそのまま結晶したかのような美しさ。森村の創意と気迫に感動した。

思うに、初期の作品程、なり澄ましに徹する森村の努力が画面に深みを与えているようだ。後半になると、作家として認知されるにつれ作家本人のキャラクターが前面に出て、例えば5時限のフリーダカーロなどは、なり澄ましにも作家からのメッセージ性が強く反映されるようになっている。画面は大型化し表現は洗練されているが、作品としては、批評性の濃い後期の作より、紙粘土に着彩した3Dのマチエールに魅力がある初期作品が、自分は好きだ。

放課後は三島事件の再現パフォーマンス。ギャラリーは自衛隊員のポジションなので、これはこっちが無視することで成立する作品かと、とっとと退場した。

出口に向う途中、常設部屋にマン・レイの写真が展示してあった。シュルレアリズムの作家達の肖像。イブ・タンギー、いい顔してる。若き日のダリ、ジゴロか、こりゃどんな男も敵わない色男振りだ。キリコ、神経質。トリスタン・ツァラが寝そべってる。エリュアールとブルトンが至近で見つめ合ってる。君ら太陽がいっぱいのアラン・ドロンとモーリス・ロネみたいじゃないか。そうなのか? あと誰だったけか、近頃、名前を思い出せない。

天然コケッコー

都会からかっこいい転校生がやってきた村の分校。迎える生徒達はソワソワと落ち着かない。

豊かな自然と不便さの中に淡々と流れていく田舎の時間、人々に育まれ大きくなっていく子供達。
中学2年の少女を軸に、村の暮らしと子ども達の成長を暖かい視線で見つめ、心に響く面白さ。
子どもから大人まで、それぞれキャラクターがしっかり立っている中で、主役の少女を夏帆という女優さんが輝くばかりの清新さでのびのびと演じている。何処に出しても、誰もが納得するだろう魅力を引き出し画面に定着させた演出が素晴らしい。おじさんはすっかり萌えー、になりそうだ。
大きな事件があるわけでもなく、田舎と田舎の暮らしを丁寧に描くだけ。だけどそれがとてもいい。足腰がしっかりした粘りのある脚本だ。音楽の付け方も画面にふさわしい節度と品で、日本映画らしからぬセンスの良さ。冗長な部分もあるが傷ではない。主演女優の魅力と作品の面白さで本年屈指の1本となった。

原作:くらもちふさこ
監督:山下敦弘
脚本:渡辺あや
音楽:レイ・ハラカミ
出演:夏帆 岡田将生 夏川結衣 佐藤浩市
配給:アスミック・エース

2007/08/17

なんばグランド花月 8月

在米の愚息2号が、日本に帰るが京都、沖縄にいくので家には寄らぬと言ってきた。嘆かわしいことだが、2号には2号なりの事情もあるようだ。なら、こちらからと京都まで顔を見に行った。親ばかだが、行きがけの駄賃に吉本新喜劇をセットした。前は全席売り切れでスゴスゴと引き揚げたこともあり、今回は事前にオンラインでチケット購入した。

ザ・プラン9という5人組、つっこみ1人にボケが4人という若手の集団。4人のボケが徐々にエスカレートしたり転調したりと、多彩な波状攻撃をかます見せ方がスマートで、脱力感も程が良い。初めて見たがとてもよかった。

久しぶりの吉本新喜劇は、病院の跡取り息子と看護婦(実はヤクザの跡取り娘)の恋愛騒動。ミスターオクレの入院患者とか、山田花子の看護婦ぐらいしか名前が分からず、知らない顔が増えていたが、ぬるいお湯で半身浴しているような独特のリラックス感は他では得られない楽しさ。

アクロバット、ビッキーズの後は、宮川大助病欠のため花子師一人で二人分の働き。続いて登場したオール阪神・巨人が凄かった。もともと巧さでは定評がある阪神巨人だが、さらに円熟味を増したステージ。あっという間に観客をひき込み、後は縦横無尽に引き回す。こちらは言われるままに揚げられ下げられ引き寄せられ放り出されて館内大爆発。堪能し感動させられた。結構客席を沸かせた後でも、お辞儀をして客席に背中を向けたとたんに、それまでの雰囲気が嘘のような冷めた表情が背中に出てしまう中堅若手は随分多いのだが、オール阪神・巨人クラスになると袖に入るまで演じきっている。隙を見せない気持よさ。背中は大事だ。

トリは桂三枝師。関西人気質をモチーフに、オール阪神・巨人が最大に押し上げた館内の興奮をクールダウンするような語りと客いじり。観客を穏やかな気分で夜の巷に送り出したる、そんな気配も感じさせる余裕の高座。

花月を出て軽く食事。ネット予約したホテル・ル・ボテジュールに投宿。名前を見て何か変だなと思ったら案の定、ぼてじゅうグループの経営だ。お好み焼きもフレンチにしてまう。流石関西なのだ。

青山二郎の眼 展

世田谷美術館 2007年6月9日(土)8月19日(日)
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

砧緑地。少しも涼しく感じられない緑陰の小径に蝉時雨。木立の奥には芝の緑に真昼の輝き。それはきれいだがとにかく暑い。
昔、たぬきはいても人はいないと言われた砧。少し下流の対岸には屋形舟が浮かび、蛍も飛んでいた。東名はまだ無く、246は弾丸道路と呼ばれていた。玉川に高島屋が出来るずっと前のこと、などとしばし懐旧の情にかられながら館内に。

前半は青山二郎セレクションによる中国、李朝の陶磁銘品の数々。さっきまでの暑さが別世界のように、青磁、白磁がつややかな肌を晒してすっきりと立っているのが印象的だ。それにしても、ギャラリーは年配のご婦人ばかリで男の姿が極端に少ない。

後半は青山二郎の骨董コレクションと装幀の仕事が通観できる。
小林秀雄と青山が畳の上に小物を並べて対峙している大きな写真が壁面を飾っている。要するにこういうことなのだな骨董ってのは。箱から出して掌に乗せ、ためつすがめつ愛玩するところがよろしいのだろう。失われた、あるいは積み重なった時間が自分の手に乗っている。それがくぐり抜けてきた時間に思いを馳せ、手の平で転がし、時に使ってみる。なんと贅沢な、ロマンティックなことではある。美術館のケースの中に凝縮された美を探すのとは自ずと別次元に属することでもあるのだろう。

山ほどのジャンクに囲まれ、骨董などにはおよそ縁のない生活者としてこの展示、参考にはならないが随分と勉強にはなった。

路上の事件 ジョー・ゴアズ

大学を卒業し放浪の旅に出た青年が遭遇する事件の数々。ジョー・ゴアズが、事実とフィクションを完璧に混ぜ合わせることにつとめたという自伝的要素も濃厚な作。ヘミングウェイに憧れチャンドラーに心酔する作家志望の主人公が行くところ、やたらハードボイルド的な環境が整った空間なのが特徴で、ケルアックを連想させる邦題だが、ビートニックということではない。

ホーボーもどきの主人公は、風の吹くまま降り立った南部の町で、いわれの無い咎を受け重労働1ヶ月の刑に。冷徹な所長と地獄のような収容所生活から、メキシコでの狂躁の日々を経て、たどりついたラスベガスではマフィア絡みのトラブルに巻き込まれ世の儚さも思い知る。ロサンゼルスで転機を得て、サンフランシスコで探偵になる。

保守的、排他的な南部の収容所生活のパートは、名作「暴力脱獄」さながらで、クール・ハンド・ルークと呼ばれたポール・ニューマンとミラーグラスをかけた看守の姿が脳内スクリーンによみがえる。メキシコの無法地帯も定番なら、ラスベガスで主人公に殴り合いの極意を授けるヘビー級ボクサーには大鹿マロイのイメージがダブる。ロサンゼルスでは不法就労と新興宗教。サンフランシスコでは中国絡みのお宝をめぐる謎と裏切り。それぞれの場所にそれぞれ相応しい事件が配される様式美。エピソードもそれぞれ完結し、連作短編のような趣もあるが、何と言っても主人公の成長を見つめる教養小説としての魅力が全篇に貫かれているのが新鮮だし、面白さもひとしお、とにかく読ませる。

スタートからロサンゼルスの放浪編ともいうべき前半と、サンフランシスコで探偵になる修業編といいたい後半部。全600ページを大きく二つに分けて、前半300ページ強は、人間の光と影に直面する作家志望の青年の戸惑いや葛藤が瑞々しく描かれ、クライム派の青春小説として良く出来ている。完成度が高く、このまま最後までいけば文学史を飾る名著になりそうな予感もあった。

修業編は完全なハードボイルドミステリーとしての世界に突入して、主人公も当然それに応じた態度を身につけていく。事務所のボス、ドリンカー・コープの薫陶よろしく、めきめき頭角を顕す主人公には、やるかやられるかの生き方が備わり、持ち前の純なる気配もいつしか薄らいでいく。はたして、21歳の主人公が、1年にも満たない期間にこんな濃密な経験をし、人間的にこれほど厳しい変容を遂げるかということについてはどうしたって無理があると思う。素直に読めない。実に惜しい。

この点を除けば、この修行編は古風なハードボイルドタッチが横溢したミステリとして懐かしさもあり、文句なしに楽しめる。飲んだくれの詩人とか、魅力的、印象的なキャラクターも少なくない。
総じて、ジョー・ゴアズが自らのハードボイルド観をストレートに吐露したかのような作品。集大成とも読める面白さだが、作者が、事実とフィクションを完璧に混ぜ合わせることにつとめたことの功罪を考えさせられた。


原題:cases
題名:路上の事件
作者:ジョー・ゴアズ  訳:坂本憲一
出版:2007年7月30日  扶桑社
価格:1000円+税

2007/08/07

トランスフォーマー

巨大ロボットの実写ものは、過去に幾つも作られたが、納得満足させてくれた作品はなかった。しかし今回はついにリアリティー溢れる巨大ロボット映画が誕生した。これは世の少年にとって、2001年宇宙の旅、スター・ウォーズ、ジュラシック・パークにつぐ画期的な作品だ。

宇宙船、恐竜、巨大ロボットは少年の夢とあこがれの凝縮した三大アイテムなのである。空想、妄想を駆使して、宇宙や恐竜やロボットに胸時めかせた幼い頃の記憶をもつ男は少なくないのである。だから、スターウォーズやジュラシックパークは熱烈歓迎されたのである。しかし、唯一巨大ロボットものについては、まともな実写作品を観ることはできなかった。ところが、その空白を埋める作品がようやく現われたのである。例えば小松崎茂の口絵に胸をときめかせた昔の少年達、彼等の積年の願いと渇望を充たす歴史的映像。リアルなロボットを初めてかっこ良く面白く描ききった記念碑的作品と認定したい。

さらに、自分の車を持ち、女の子にもてて、兵器や軍隊と肩を並べ、世界の中心で特別に選ばれた存在としてヒーローなるという、これはあらゆる意味で男の子をいい気持にさせることを目指した映画だと言える。主役の男女は高校生だが、これが小学生でもまるで差し支えない。むしろドラマ的にはその方がしっくりするようなところさえある。それをバッチリサポートするロボット達の活躍。男子はこういうことですっかりいい気持になってしまうのである。男子の欲望ストレートに形にしてして見せる。この臆面のなさ。スピルバーグ偉いところはまさにここ。マイケル・ベイの起用もツボだ。

原題:Transformers
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ、マイケル・ベイ
製作:ドン・マーフィ、トム・デサント、ロレンツォ・ディ・ボナベンチュラ、イアン・ブライス
撮影:ミッチェル・アムンドセン
音楽:スティーブ・ジャブロンスキー
美術:ジェフ・マン
2007年アメリカ映画/2時間24分
配給:UIP

2007/08/04

ロマンス 世田谷パブリックシアター

井上ひさしの新作。大竹しのぶと松たか子の共演にどんなドラマが用意されるか、今を代表する女優同士のドロドロなバトルを観てみたい。そんなミーハー気分から初日のチケを取った。しかし、幕が上がって繰り広げられたのはチェーホフの生涯。それも、何より笑いを重視し、素晴らしいボードビルのステージを作ることを目指していたチェーホフという前提から、舞台は軽妙な演技と歌声で綴るコメディー仕立ての音楽劇となっている。

チェーホフのことは何も知らないもんで、この評伝形式を借りた井上ひさしによるチェーホフ論とも言うべき内容は勉強になった。少年、青年、壮年、老年の4期に分けたチェーホフを4人の役者が演じるという演出。男優は目まぐるしく役どころが入れ替わるが、松たか子が一貫して妹を演じていることから、変化するチェーホフの個性の違いにも違和感はなく、かえって新鮮な刺激になっていたのも、ボードビル的演出の冴えというべきか。

壮年期を演じた段田安則がいい。ドロドロこそなかったが、大竹しのぶの、スケールと振幅も自由自在な演技は流石だ。松たか子も唄の巧さと切れのいい動きで輝いていた。それぞれの場面で見せ場はあるが、生瀬勝久の発散するエネルギーと軽さ、そこに若干の狂気が加味された演技はこの作品のテーマ、精神を見事に体現している。楽しい。

納得いかないのは終盤、トルストイを挟んでスタニスラフスキーと対話する晩年のチェーホフを演じた木場勝己の荘重深刻さ。あの過剰ともいえる深刻な発声とセリフ回しは、明らかに周囲から浮いき上がり、アンサンブルを壊していた。もっと軽く見せた方ら、もっと気持よい幕引きになりそうだった。

ロマンス 8月3日 世田谷パブリックシアター H-29
作  井上ひさし
演出 栗山民也
音楽 宇野誠一郎
美術 石井強司
照明 服部基
出演 大竹しのぶ、松たか子、段田安則、生瀬勝久、井上芳雄、木場勝己

2007/08/02

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

原作は読んでいない。映画は全作観ているが、アズカバンの囚人はゲイリー・オールドマンが余り好みじゃなく、炎のゴブレットはダンブルドアがリチャード・ハリスじゃないことに抵抗があったりして、シリーズの進行につれて気持が乗らなくなっていた。そんな気分とこれまでの行きがかり上観たのだが、案に相違して楽しめた。

マルグのいじめとハリーの逆襲という定型のプロローグが嫌いなのだ。毎回楽しめないのだが、今回は違った。体裁は同じでもマルグを馬鹿にしきったようなお笑いは一切なしでマルグとハリーがいきなりの恐怖にさらされる。いつもとは違うハードな始まり方だ。

ハリーの反則がきっかけとなり、ホグワーツ魔法学校の改革に着手する魔法省。送り込まれた新任教師が押し進める教育改革という名の粛正に、ダンブルドアさえなす術もない。ダークな物語だが、すっかり大人びたハリーには却って収まりがいい陰鬱さでもある。教育再生会議と教育三法の現政権にもシンクロしたアップ トゥ デートな展開ともいえる。

ダンブルドアが良く見えるのである。ゲイリー・オールドマンさえ今回は好ましい。自分としては、今までどうにも抵抗があったこの二人がかっこ良くさえ見えるのである。これはなぜか。改革を断行する女性教師ドローレスを演ずるイメルダ・スタウントンのキャラ造形が素晴らしいからである。一見かわいい外見に潜む頑迷蒙昧陰険強引の憎たらしいこと。大好きなアラン・リックマンも影が薄い。ボルデモートよりこっちの方が恐いってぐらいのもんである。やはりね、女はすべからく魔女である。魔女なのである。教訓。

強まる悪の力。成長する子ども達。派手な魔法戦に悲劇性を増して行く物語。テムズの川面をビックベンの鼻先かすめてぶっ飛んでいくハリー達。ユー キャン フライの時代とは違う21世紀のピーターパン。今回クィディッチ戦がなかったのもよかった。

原題:Harry Potter and the Order of the Phenix
監督:デビッド・イェーツ
脚本:マイケル・ゴールデンバーグ
製作:デビッド・ヘイマン
原作:J・K・ローリング
撮影:スワボミール・イジャック
音楽:ニコラス・フーパー
美術:スチュアート・クレイグ
2007年アメリカ映画/2時間18分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2007/08/01

レミーのおいしいレストラン

とにかく、口に入るものなら何でもいい、というねずみ一族の中にあって、素材の鮮度と食い合わせにこだわる異端児レミーはやがて調理に目覚め、ついに花の都でレストランの調理人として頂点に立つ。

最強のブランド力を誇るピクサー社の新作。期待に違わず面白い。田舎から花の都に流れ着く前半部はユーモアもスペクタクルも、巧みなストーリーの流れを効果的に盛り上げて素晴らしい。しかし、パリのレストランに住み着いてからの展開は説得力不足で爽快感に欠ける。

レミー一匹だけならまだしも、他のネズミたち、一族郎党ことごとくを人間の食文化に隷属させ、そこに生活改善したネズミ達の幸せも描き込んでいるのがどうにも気色悪い。ネズミのアイデンティティーを無視したネズミのあり方を一方的に押しつけてもネズミは納得しないと思うが、映画だからみんな納得しちゃってるのだ。しかしなぁ、文化的侵略行為をこんなに明るく楽しく肯定的に描いちゃっていいのか。ベトナムから湾岸戦争を経た、これがアメリカなのか?

ここに描かれた人間とネズミの関係は、今も絶えない異文化衝突のメタファーとしても成り立つもんだから、いまどき、よくこの脚本でよく映画にできたなとびっくりなのである。ネズミはネズミであり何のメタファーでもないと言うかも知れんが、だったら尚更ネズミに人間のまねごとなどさせない方がいいのだ。このゴーマンさに後半は全然楽しくならないのだ。


原題:Ratatouille
監督・脚本:ブラッド・バード
製作総指揮:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン
音楽:マイケル・ジアッキノ
出演:パットン・オズワルト、ルー・ロマーノ、イアン・ホルム、ジャニーン・ガロファロ、ブラッド・ギャレット、ピーター・オトゥール、ピーター・ソーン、ブライアン・デネヒー
2007年アメリカ映画/1時間50分
配給:ディズニー
編集

ロバート・アルトマンのロング・グッドバイ

7月22日(日)朝日朝刊の読書欄、ロバート・アルトマンの評伝を取り上げた慶大巽孝之教授の書評を読んでいて、休みの朝のユルい気分が一気に覚醒させられた。

「M★A★S★H」の成功、「ポパイ」の挫折。成功も失敗も、到底ハリウッドメジャーの枠には納まリきらない独自性と個性の故。いつしか孤高の大監督として地歩を築き、昨年亡くなるまで最前線を走り続けたロバート・アルトマン。チャンドラーのロング・グッドバイを映画化したのは長いキャリアのごく初期にあたる73年だった。

夜中にキャットフード買いに行くエリオット・グールド!、という型破りなマーロー像が意外にもカルト的な支持を集めたこの作品は、しかしチャンドラー的な感傷やマーロー的なヒーロー像に対してのシニカルな視線に貫かれている点において、実に非チャンドラー的とも反チャンドラー的とも言える作品だ。

エリオット・グールドの起用からしてだが、ハリウッドが生んだ屈指のハードボイルドヒーローを笑い飛ばそうとするアルトマンのへそ曲がり振りも顕著だ。アルトマンにとって、ハリウッド的ヒーロー像などはとても容認できる代物ではないということは、例えばロング・グッドバイに先立つ2年前の BIRD★SHIT(70)に描かれた、カーチェイスに失敗して池に飛び込み、全身ずぶ濡れで途方に暮れるタートルネックの刑事、というあからさまなブリットのパロディーにも見て取れる。

しかし、テリー・レノックスの描き方において、アルトマンの「悪意」はより一層明らかだ。飲んだくれで純粋で誠実なヤクザなテリーとそんな男を放っておけないマーロー。友情と裏切りを描いて原作とは正反対の結末を突きつけるアルトマン。この作品の核心をなすそのインパクトに啞然とさせられたが、これはチャンドラーの50年代な自己陶酔の気持悪さを、70年代のリアルで見事にばっさり切り捨てやがったと、これはこれで有りだなと公開当時妙に納得したものだった。

今では、松田優作の探偵物語の下敷きになった作品として評価されている面もあるが、何よりチャンドラーの代表作をもって従来のハードボイルドヒーロー象を徹底的に虚仮にしているところがこの作品の実にハードボイルド的な特徴で、ロバート・アルトマンはいかにも隅におけない癖の強い監督なのである。ロング・グッドバイとはそうした屈折した面白さにあふれた、自分にとってはアンチハードボイルドなハードボイルドとも言いたい作品なのだ。

アルトマンはどうしてテリー・レノックスとマーローをあんな風に描いたのか。テリーを撃ち殺したマーローがピョンと跳ねて両足の踵を打ち鳴らす。原作の気分からはあり得ないエンディングだろう。これはどうしてなんだ、とあれこれ考え、きっと、チャンドラーのセンチな描き方、マーローの自意識過剰が嫌だったのであろう、などと、アルトマンの心中を斟酌したりした遠い過去をもつ頭に、巽教授の紹介文がガッツーンと強烈にヒットした。

>たとえば、ハードボイルドの巨匠レイモンド・チャンドラーの名
作を映像化したロング・グッドバイ』(1973年)で強調される「落
ちた偶像」の背後には、グレアム・グリーン原作、オーソン・ウェ
ルズ出演の『第三の男』が介在していたこと。 
07年7月22日 日曜日 朝日新聞朝刊 13面 より引用。

えッ、そッ そーなのか。 
「第三の男」って、そういえばジョセフ・コットンの作家とオーソン・ウェルズのハリー・ライムって、マーローとテリー・レノックスの関係に完全にかぶるじゃないか。アルトマンが言う第三の男との関係が映画だけのことか原作についてのことかが、新聞の記事だけでは分からないので何とも言えないが、アルトマンが第三の男を意識したことは良くわかった。あのエンディングの謎が、大きく一つ腑に落ちる。そこで気になるのはチャンドラーと第三の男の関係だ。

で調べたってほどのこともないがインターネットは便利だ。

 ロング・グッドバイ出版1953年
 映画「第三の男」 公開1949年
 小説「第三の男」 出版1950年

チャンドラーがグリーンに影響された可能性は凄く高い。
間違いない。