2006/10/30

木更津キャッツアイ ワールド・シリーズ

主人公が余命半年というところから始まった「木更津キャッツアイ」。創意と閃きに満ちたシリーズは視聴率こそ低かったが、コアなファンを獲得し、大日方文世、古田新太、桜井翔、阿部サダヲ、気志団などの知名度を一気に高めた。TV終了後、映画「日本シリーズ」が制作されたが、これは狂騒的なギャグが空回りするばかりの悪夢のような作品だった。あれから3年、ワールドシリーズと銘打った完結編ではあるが、「日本シリーズ」 の時のような痛い目には遭いたくないし、今更感ってのもある。正直、気乗りはしないが、今までの付き合いからスルーもできず、初日を逃したら行けなくなるだろうやっぱ。ってことで硫黄島を後回しにした。

ぶっさんの死後、別々の道を歩み始めたキャッツ達。市役所の役人となって今は一人木更津に残ったバンビに、ある日、天からの啓示が訪れる。「それをつくれば彼がやってくる」。その声に導かれ、バンビはぶっさんの3回忌に合わせてキャッツを招集する。

野球で結ばれた男の甦りとなれば当然「フィールド・オブ・ドリームス」だろう。だれも文句はいえなかろう、という開き直りのような設定だが、クドカンはキャッツの誰も肝心の「フィールド・オブ・ドリームス」を観たことがないという変化球でコーナーを突いてくる。「日本シリーズ」的悪ふざけは影を潜め、変化球もまあコントロールされている。

夢も希望も傲慢も挫折も不安も怒りも、理解し合える仲間はあっても、乗り越えるのは自分だ。プラスとマイナスはいつもひとかたまりでやってくる。分裂と再会を通して成長していくキャッツの姿が切ない。同じものを観ているようで微妙にずれている人間の可笑しさ哀しさを描くクドカンの目は優しい。優しいが含羞の人でもあるからウエットに盛り上げてもことごとくギャグでひっくり返す。泣かされて笑わされて、よく揺さぶられた。シリーズの終了からこれまでに流れた時間が、登場人物の変化としてリアルに現れている。特に、キャッツの変化は成長その もの青春そのものだから、彼らの「ばいばいを言う」というテーマが、例えば塚本高史の迫真の演技から切実さと説得力とをもって立ち上がってくる。 そして人生は続くのだ。役者がみんな素晴らしい。「ワールドシリーズ」はTVシリーズを楽しみ、流れる時間を共有した者には涙なしには観られない作品になっている。

監督:金子文紀
脚本:宮藤官九郎
プロデューサー:磯山晶
音楽:仲西匡
出演:岡田准一、櫻井翔、佐藤隆太、酒井若菜、塚本高史、岡田義徳、山口智充 阿部サダヲ
2006年日本映画/2時間11分
配給:アスミック・エース

2006/10/17

レディー・イン・ザ・ウォーター


「シックスセンス」の幽霊、「アンブレイカブル」の超人、「サイン」の宇宙人、「ビレッジ」のモンスター。シャマランの作品はすべからく怪異譚だ。それも ゲテモノ系の。ゲテモノベースに家族愛をブレンドしたスリラー仕立て。ピュアでイノセントな存在を保護する結界が破られ、悪意が浸食してくるというパ ターンを、サプライズエンディングで締めくくるのが基本的スタイルといえる。

「レディー・イン・ザ・ウォーター」もこの流れの上にあるが、シャマランは一番の売りであるサプライズエンディングを放棄し、冒頭のナレーション で物語の前提を全て説明するという思い切った作戦に出た。言ってみれば、語り口を倒叙形式に変えて勝負してみました。といったところだろうか。

もっとも、その昔、人類は水の精霊と協調しあい、調和のとれた世界で幸せに暮らしていましたと言われて、納得や共感求められているようなのだが無理だ。そのお話にサプ ライズはあっても、合理的に物語を閉じる力は無い。だが、シャマランは躊躇も遠慮もなく、水の精霊と守護者達の物語を強引に押しつけてくる。そこには疑問 も異論も反論も入り込む余地はないのである。

シャマランが我が子に語り聴かせた自作のおとぎ話がベースになったストーリーなのだそうだが、三つ四つの幼子ならいざ知らず、金を払った観客相手 にそんな話で啓蒙を図ろうとしているのはどうしたこと。一体人のこと何だと思ってんだろうってことなのである。観客をバカにするにも程があるわけだが、本人にはそのような気はさらさらなさそうだ。どちらかといえば、自我を肥大 化させた新興宗教の教祖が、信者に教義を授けているというのがより近い。
監督本人が結界突破し、トンデモ系世界に大きく踏み出してしまったようだ。

今にして思えば、「シックス・センス」という見事な作品が生まれたのは奇跡としか言いようがない。あの作品に顕れていた謙虚さや真摯な思いは、今のシャマランからはもう感じられないのは残念だ。成功によって人がスポイルされるのは、決して珍しくないのだけど。

原題:Lady in the Water
監督・脚本・出演:M・ナイト・シャマラン
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード、ジェフリー・ライト、メアリー・ベス・ハート
2006年アメリカ映画/1時間50分
配給:ワーナー・ブラザース映画

2006/10/15

16ブロック


ニューヨーク市警のはみ出し落ちこぼれアル中ブルース・ウイルス刑事、夜勤明けの開放感に浸る間もなく、ちょいとこの 16ブロック先の裁判所まで、チンピラ一人を連れけと命じられ、嫌々ながらもほんの片手間仕事と、チンピラを乗せて発車する。朝の渋滞、軽口を叩き続ける チンピラ、半端な仕事、全てにうんざりしたアル中刑事の倦怠感が謎の襲撃にいきなり破られ、16区画の街路に激烈なサバイバルレースが繰り広げられてい く。

いやー上出来、大満足、素晴らしい。
生きる目的を見失ったアル中と人生の半分を刑務所で過ごしたチンピラの二人組が、NYPDを向こうに回しての敵中突破のクライム・アクションなロードムービー。
この二人が顔を合わせた時に、チンピラが刑事にする質問。
「大嵐の夜、車で通りかかったバス停に人が3人立っていた。親友と祖母と理想の女。車にはあと一人乗せることができる。その時あんただったらどうする」

全身から発散する黄昏感が真に迫ったブルース・ウイルスがいい。
しゃべり続けるチンピラを演じた黒人青年はラッパーだそうだが、道理で声のトーンやしゃべり方に独特な味があり、しゃべりが神経に障るような状況もそうは感じさせない魅力で演じて、これは実にナイスなキャスティング。

朝のマンハッタンという思いっきり日常的な状況に、警官対警官というプロ同士の腕比べ知恵比べをスピーディーに、かつ意外性十分に描いた脚本の巧さ。多彩なバリエーションで繰り広げたガンプレイやカーアクションの演出も流石の職人技。

バス停3人の選択をどうするか、ブルース・ウイルスの憎い答えが二人の道中を気持ちよく締めくくる。 

監督のリチャード・ドナーはオーメン、 スーパーマン、グーニーズ、リーサル・ウェポンと長期安定のキャリアだが、1930年生まれの76歳ということになる。実に、娯楽映画の王道を貫く内容と スタイルの素晴らしさ。エネルギーとパワーに溢れ、年齢を感じさせない大いなる仕事振りにも感動した。


原題:16 Blocks
監督:リチャード・ドナー
脚本:リチャード・ウェンク
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:クラウス・バデルト
出演:ブルース・ウィリス、モス・デフ、デビッド・モース、
   ジェナ・スターン
2006年アメリカ映画/1時間41分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

2006/10/14

ブラック・ダリア

カメラは移動するが、デ・パルマ的なトリッキーさは影をひそめ、随分抑制されている。それは内容についてもいえること で、ミステリーとしても、人間ドラマとしても怖さはまったく感じられない。原作を大切に扱った脚本ではあるが、本質的なところでエルロイのエネルギー、狂 気、怒り、不安、希望などとクロスすることはなかった。

原作を抜きにしても、登場人物達が抱え込んだ物語や秘密は過剰で、彼らの行動と動機とストーリーとの関わり方が重い。 というか、どの人物の行動もきちんと理に落ち過ぎ、キャラクターは人間的な奥行きや膨らみを欠いている。

スカーレット・ヨハンソンは美しいがただそれだけ。それだけで充分という見方もあるが、この作品については全く不十分。ヒラリー・スワンクの役所 は脚本段階での掘り下げが足りないが、それ以上に成金のゴージャス感にも乏しく、演技的にはともかくビジュアルとしてミスキャストだろう。ジョシュ・ハー トネットも良くやっているが終盤に成る程説得力は乏しかった。

なにより、ブラックダリアというシンボリックな死体をメインに据えながら、「ブラックダリア」に囚われていく男達の狂気や妄執に説得力を与えられ なかったことは致命的だ。ミステリを越えたミステリといえる原作を、デ・パルマはごく普通のミステリー映画にしてみせただけともいえる。

原題:The Black Dahlia
監督:ブライアン・デ・パルマ
製作:アート・リンソン
原作:ジェームズ・エルロイ
脚色:ジョシュ・フリードマン
撮影:ビルモス・ジグモンド
音楽:マーク・アイシャム
出演:ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンク、ミア・カーシュナー
2006年アメリカ映画/2時間1分
配給:東宝東和

2006/10/07

フラガール



昭和40年。やがて閉山が避けられない炭鉱町の未来を賭けて、温泉利用の画期的なリゾート事業、東北のぼた山をハワイに変える「常磐ハワイアンセンター」 計画が動き出す。そこで、フラダンスチーム育成のため東京からプロの先生が招聘される。ところがこの先生、田舎を嫌悪し、さげすみながらビールを飲むより他 に能がない。一方迎えるダンサー候補生達も、フラのフの字はおろか、ダンスのダの字さえまるで判らない身の程知らずばかりなのだ。
貧しいながらも鉱山の誇りと共に暮らしてきた人々にも、時代の波は否応なしに押し寄せてくる。世代も違えば、立場も考えも違う。旧来の生活を守 り抜こうとする人。坐して死を待つより自分たちで前に出て行こうとする人。町を二分する不穏な空気の中、明日を夢見る少女達のエネルギーが、彼女達自身を 動かし始める。

駄目コーチの松雪泰子、ダンサーの蒼井優。この二人はどちらも主演女優賞として顕彰されるに必要十分な実力と魅力で輝いている。炭鉱夫の豊川悦 司、マネージャーの岸部一徳、ダンサーの池津祥子、母親の富司純子。この4人は誰もが助演女優、男優賞に値する素晴らしい存在感を示している。ダンサーの 静ちゃんも忘れられない存在感で新人賞確実。それくらい役者達が輝いている。ひらめきのあるキャスティングなのだ。

それも脚本の素晴らしさあればこそだろう。歴史的社会的背景をしっかり押さえ、その上に駄目人間の再生と若者の成長を丁寧に描き、普遍性ある テーマを、誰もが共感できる感動へと繋げている。キャラクターの造形やギャグにあざとさがなく、エピソードの重ね方にも無理がない。素直にスクリーンに集中 できるのだ。意外性ある展開も、伏線も気が利いているし、俳優達の全てが皆もうけ役に見えるという奇跡。大した脚本だ。

がんばれベアーズ、プリティーリーグ、クールランニングなどの駄目コーチ再生のスポ根ジャンル映画としての定型を、日本の炭鉱という特殊な状況へ とうまくローカライズしている。リトルダンサーの影響も見逃せないが、真似とかパクリとかではなく、過去の優れた作品の精神が気持ちよく継承されている点 において、映画的教養と知性と人間味に溢れた、素晴らしい演出を讃えたい。

監督:李相日(り・さんいる)
脚本:李相日、羽原大介
撮影:山本英夫
美術:種田陽平
音楽:ジェイク・シマブクロ
出演:松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、山崎静代、岸部一徳、富司純子、池津祥子
2006年日本映画/2時間
配給:シネカノン

2006/10/03

東洲しゃらくさし


平成九年に書き下ろされた松井今朝子のデビュー作。
題名から明らかなように写楽もの。寛永年間に忽然と登場し、短期間に幾多の傑作を残して忽然と消えた謎の絵師。写楽の謎を求めてはいくつかの作品が書かれている。それらは写楽の正体について、魅力的な答えの一つとして了解されるものの、謎は依然謎のまま生き続けている。先人、先達が寄ってたかって発掘し尽くした感のある写楽。そのような写楽を、あえてデビュー作に持ってこようというは一体どんな了見かと思うが、松井今朝子という人がいかに性根の座った、良い根性の持ち主であるかは、一読すれば良く判る。

大阪の狂言作者並木五兵衛が江戸に下った時期と、写楽の登場とが期を一にしているという史実から広げた物語は、上方と江戸の文化的相違を軸に、歌舞伎にまつわる人々の様々な生業、営みをもって写楽とその時代を説き起こし、返す刀で写楽の謎を描き切る。といっても、写楽の謎を解き明かすということではなく、当時の状況に納まる写楽像はこんな風ではなかったかとするその造形にも説得力がある。
客観に徹した作者の態度が心地よい。安易な感傷に煩わされることなく切れのいい叙情が味わえる。歌舞伎の制作、劇評に長く携わっていたという作者の分厚い知識教養も、物語の流れに自然に溶け込んで、単なる蘊蓄の辛さもない。

新人のデビュー作と感じさせぬ、悠揚迫らぬ筆致で描かれた写楽の時代。感傷に訴えようとはしない作者だから、こちらも作中人物への感情移入や思い入れもなく読み進めてきたつもりだったが、淡々と綴られたエピローグには思いがけずにほだされ涙こぼれそうになった。鮮やかな幕切れに柝の音がいっそう高く鳴って、深い余韻に包まれた。

PHP文庫 2001.8.15 1刷

2006/10/02

百番目の男 ジャック・カーリィ


05年このミス6位にランキングされたサイコサスペンスはバカミスと評されることも少なくなかった。
サイコはともかく、タイトルにも惹かれなきゃ著者も知らないしバカミスにも興味はないので読む気もなかったが、よく見れば表紙がクールだ。それがどうも気になって、この本は完全にジャケ買い。

マッチョな筋肉の完璧なボディーには染みひとつ傷ひとつなかったが、首もなかった。美しい死体に残された謎のメッセージ。連続する猟奇殺人の捜査に投入されたのは、イカレた犯罪専門部署の冷や飯食いコンビ。99人が同じこと言っても別のこと考える百番目の男とその相棒。

物事には素直な気持ちで当たらなければいけない。知った気になっていつの間にか傲慢不遜な判断をしてしまう。それは、結局自分のマイナスにしかならない。そういうことを改めて感じさせられる程に、「百番目の男」は面白かった。主人公の相棒以外はほぼまともな人間が出てこないという屈折。しかしふざけた会話にも陰鬱な描写にもどこか若さと清新さ漂う独特のきわどい魅力。

それにつけても、「羊たちの沈黙」の凄さがこの作品からも改めて感じられるのは、この作品もレクターの影響が色濃いが、これに限らず、他にもレクターの影響を強く感じされる作品がいくつもあることだ。レクターとクラリス・スターリングは、今や、ホームズ、ルパン、マーロウに比肩する影響力をもった歴史的キャラクターとして、地歩を固めているようだ。

この人いいなぁ、次も是非読みたい。

文春文庫 771円 05.12.1 2刷

溺レる 川上弘美


女性の1人称で綴られた短編が正味200ページに満たない文庫に納められている。道行き、駆落ち、同棲、SM、性欲、3p、心中、不死。八つの短編はどれも一貫して性を切り口に生を描いている。

日常は日常であり日常ではない。鋭利な感覚を緩さで語る繊細で剛胆な筆遣い。品の良さと伸びのあるリズム感で巧妙な語り口。文章は優しく哀しくそして軽い。

八編の主人公達は世俗の価値観や意味に縛られていない。それよりもっと別な大切なものに囚われている。だから、いくらでも重苦しくなることを、作者は軽さで顕していく。

軽さは優しさ哀しさを浮かび上がらせるが、同時に怖さももれなくついてくるのだ。その怖さは、こちらの世知の浅はかさや、世俗の垢の付き具合に気づかせてもくれる怖さであり、男にとっては、紛れもない女の怖さでもある。

2003年 7月25日 5刷
文春文庫

センセイの鞄 川上弘美


気が向けば、一人気兼ねなく、心おきなく酒を楽しむ。月子さんの通い慣れた居酒屋は、その昔、高校生だった月子さんの国語教師の行きつけの店でもあった。ふとしたきっかけから飲み友達となった元教師と元生徒。会えば楽しく杯を重ねるし、会わなきゃ会わぬで過ぎてゆく。そんな風に始まった居酒屋のお付き合いだったけれど、せんせいと飲む酒の旨さと時間の豊かさ、そのかけがえのなさに、いつしか月子さんは思い至る。超然として揺るがぬように見える、謹厳なせんせいにしても、それは同じなのだった。

月子さんもせんせいも繊細で背筋がスッと伸びている。何より川上弘美の文章がそのような文章なのだ。見慣れた光景から異質な風景を切り出すカメラマンのように、ありふれたことも、思いがけない描き方で新鮮に見せるのだ。居酒屋の場面が楽しい。ごく普通の日本酒の、枝豆や豆腐の美味さが、じわっと伝わってくる。

親しい程に、親しくなければなおさらに節度と品位が必要だろう。月子さんもせんせいも居酒屋の主人も、それを失わない。月子さんとせんせいはお近づきになりたいが、節度と品位を乗り越えるにも節度と品位を捨てられない。作用と反作用。星のフラメンコ。そこから漂うエロティックな空気が、清冽で濃密というような相反する曰く言い難い魅力で作品を支配している。物を食うせんせいの口元に隠れもない老いを見る月子さんはどう思うか。老醜と嫌悪するなど論外、自分もあのような口元になりたいと、発作のような激しい思いに囚われるのだ。凄い。
そんな月子さんに、せんせいはいいこいいこと優しく頭をなでるのだ。川上弘美の優しく厳しく潔いエロティシズム。谷崎潤一郎賞受賞、文句のつけようも無い。

文春文庫 06.5.15 9刷

国家の品格 藤原正彦

世界的に見て、先進諸国は軒並み社会的荒廃を招いている。それは西欧的合理主義、理論的思考の限界に他ならないのじゃないか。戦後、日本も合理主義、市場原理で突っ走ってきたが、論理的な整合など前提次第でどのようにも変わるものだし、民主主義が結果の正しさなど保証するわけもない。国際社会に対応できる人材育成のために小学校から英語を教えようという、これも立派な理屈だが、果たしてそんなことから世界に通用する国際人が育てられるものだろうか。理屈に頼っては躾だってままならないというものだ。

ではどうすれば良いか。形を尊び豊かな情緒を育んできた日本の文化伝統の中にその答えはある。日本の古来の価値観、世界観の復権こそ、いまや国を挙げて取り組むべき課題ではないか、より具体的には新渡戸稲造の言う「武士道」の精神に学ぶべきはある。もとより、日本人は敗者への共感、弱者へのいたわり、惻隠の情を以て世に対してきた。そうした行き方を取り戻すことが、国家としての品格をより高めていくことに通じるのである。

といった論が、著者が数学者として内外で生活した経験の中から、豊富な事例、エピソードを交えながら展開される。平易な語り口に適度なユーモア。口当たりが良くて分かりやすい。面白くて説得力があるしベストセラーも当然だと思った。

著者の主張は尤もだと思う。異論も反論も特にない。ましてや、もう何十年にわたり「卑しい街を行く高貴な騎士」だと作者が認ずる探偵をアイドルとしてきた身であるから、武士道だろうが騎士道だろうがさしたる抵抗はないのだが、私立探偵が騎士気取りで街をほっつき歩く分にはまだしも、国家のあり方を論ずるのに武士道持ってこられてもなぁーって気は、どうしてもするのだった。

奥付きの著者紹介に、新田次郎と藤原ていの次男とあって、これにはびっくりした。

新潮新書 06.4.10 23刷

東京タワー   リリー・フランキー


東京タワー リリー・フランキー
親子、家族の有り様も時代と共に変化する。尊属殺人に恐れおののいたのも今は昔。父性も母性も昭和のノスタルジーかと思えるような幼児虐待の報道も、こう日常茶飯ではニュースバリューも下落する。

こんな時代だから、名前を書けば死んでしまうノートブックの秘密を巡る物語に引き込まれる事もあるし、一方では癒しや感動を求める気持ちも強くある。そんな次第で、感動必至、号泣必至と言われると手が出る。

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン リリー・フランキー
このタイトル、副題、著者名の字面から受ける感じからは、ちょっと軟派系の切なく情けないような話かとの予断があった。はじめのうちにこそ、そんな雰囲気もあったが、どうしてどうして、これは北九州の大先輩「花と竜」の直系の子孫とも言うべき無頼の精神に貫かれた、堂々たる硬派の物語だったのが意外だった。

九州発、花と竜、青春の門の流れを汲む青春サクセスストーリーとしても良くできている。語りも巧いしタイトルが憎い。

何より、この本の大成功によって、著者自身がマイナーから一挙に大ブレークしたこと。本に描かれた結末にさらなる増刷が加わり、現在進行形のライブ感溢れるジャパニーズドリームと化したのは、作者の意図を遙かに超えて、この作品をきらびやかに変質させているようだ。

非道、行ずべからず 松井今朝子


文化六年巳歳の元日、年頭恒例の舞台も無事済んだその夜、江戸随一の芝居小屋中村座は、隣町から押し寄せてきた火の手に焼け落ちた。翌朝、焼け跡に立った太夫元十一代目中村勘三郎が今後の方策を思案する間もなく、焼け残りの行李から男の他殺体が発見される。

北町同心と同心見習いの二人、ベテランと新人コンビが挑む江戸最大の芝居小屋に繰り広げられる連続殺人事件。今に続く歌舞伎の、江戸時代の名人上手はどんな舞台を作っていたのか、芝居小屋はどう運営されていたのかなど、芸道ものバックステージ物としての興味深い蘊蓄、エピソードをミステリの流れに巧く溶け込ませている。

非道、行ずべからずとは、斯道を全うしようと思うなら、他の事しておっつくもんじゃないよ、ってことらしい。芸人たるもの芸に生きるのが本分。人の道より芸の道ってのは当然のこと。という世界の面白さが、多彩な、味わい深いキャラの魅力とともに描き込まれて、深みと奥行き、懐の深さを感じさせる面白さ。

作者は京都の出身で長く松竹で歌舞伎の興行に携わっていたらしい。ベタつかないけど優しさを感じさせる人間の描き方がクール。きりっとしてメリハリも効いた文章も魅力的だ。直木賞候補作ということだが、落選というより、直木賞とれる程つまらなくないというところかな。全作読む。

05年4月25日 1刷  集英社文庫 838円