2007/05/29

若冲展 相国寺承天閣美術館 

5月26日(土)朝5時起き。9時過ぎに京都駅。その足で相国寺に向かう。開館時刻には余裕なのだが既に150m程の行列。しかしこれぐらいなら上出来、と思ったのはあさはかだった。これはチケット購入の列で、その先入館迄、列は更にうねうねと連なっていた。

一室は「鹿苑寺大書院障壁画」をメインとする水墨画の展示。二室が「釈迦三尊像」「動植綵絵」の一括展示という構成。

一室ではまず新発見初公開という厖児戯帚図(ぼうじぎほうず)。画面を斜めに2分するの大きな箒、ユーモラスというより人を喰った作品だが、まるでマーカーを使って描いたような筆のタッチと色使いの新しさが印象的。その隣の布袋渡河図に脱力し頬も緩んでしまう。さらにカメ、鳥、鯉、龍の洗練とユーモア。しかし圧巻は、何と言っても鹿苑寺大書院障壁画。葡萄の不気味と、芭蕉のスケール。具象を極めて抽象に至ったかと思わせる自在な筆使い。本当に若冲の水墨は魅力がいっぱいで、デザインセンスや空間処理の素晴らしさから生まれる気持よさ楽しさもひとしおなのだ。

「動植綵絵」は昨年大がかりな修復作業を終えて、宮内庁三の丸尚蔵館で分割展示されたうち一期分だけ観た。それだけでも迫力充分だったが、「釈迦三尊像」を取り囲んで全作が並んだ様は、華麗な色彩が溢れかえって荘厳な中にも異様さが漂う。
鶏の緻密、雁の大胆、鳳の官能、鸚鵡のユーモア、貝の怪奇、花の狂気。人間業とは思えない観察と集中力で描き込まれた生きとし生けるものの姿。その中心には釈迦三尊。全三十三幅に人間は描かれていない。しかし、見事な筆によって描かれた生き物達にぐるりと取り囲まれたその真ん中に生身の人間がひしめいている。その中にいて、ふと、これって、若冲の宇宙観宗教観そのままではないのか、これこそ、三十三幅に込められた願い、若冲が意図し演出したところの、生きた曼荼羅とでも言うべき宗教的空間なのではないかと思い至った。
図録2500円の出来にも満足。

2007/05/21

藪原検校 シアターコクーン


按摩、鍼灸などで細々と生計を立てる座頭から、盲人の頂点に立つ検校まで。独自の階級に組織化されていた江戸時代の盲人社会。貧しい座頭の杉の市は度胸と才覚で頭角を顕し、目明きに伍しで天下を取ろうと悪の限りを尽くすが、階段を上りつめようとしたその時、時代は大きく転回していた。

風雪に晒されたような板戸を隙間なく張り巡らせた装置に、寒村の貧しさや閉塞感が浮かび上がり、舞台上の格子状に張り巡らされた何本ものロープが社会の枠組みや規制を象徴する。一人何役も割り当てられた役者達がステージの隅で着替えし待機している。テンポの良さと素早い転換。濃い男達が伝える悪をまっとうした悪党の魅力。

ふてぶてしさと愛嬌でのし上がって行く杉の市は古田新太にうってつけの役どころ。人を喰った、ピカレスクな主人公の柄を余すところなく演じている。男臭い役者達の危ない匂いが充満するステージにあって、田中裕子が発散させる雰囲気。これがヤバいくらいにエロな魅力なのである。この妖艶さはちょっと目が離せない。田中裕子ってこんなにいい女だったとは。今迄全く分かってなかった己の不明を恥じるばかリ。

金が全てと悪の華を咲かせる古田杉の市に対し、目明きよりも一層の徳目と勤勉さで盲人の矜持を保つべしとする塙保己一を格調高く演じた段田安則の名演が劇全体をスパイシーに引き締めて実に印象的。時代に歓迎された人気者がその人気故に時代と権力に裏切られる。何時の時代にもある話だが、暗ーい話を唄と語りに乗せながら軽妙に面白く見せてくれるが、この面白さは、今と言う時代の確な写り込みによる面白さでもある。

終演後、コーヒーなど飲んでいたら、近くのテーブルに座った人の中に蜷川幸雄氏がいた。血色もよく艶やかな様子はタフな仕事ぶりも納得の若々しさだった。

2007/05/07

スパイダーマン3

製作費3億ドル(約357億円)なのである。映画史上制作費最高記録を塗り替えたのである。実質的に、客観的にも世界1の歴史的作品が世界最速で一般公開される5月1日。しかも、1日は映画の日で料金は1000円ぽっきり。当然初回に拝見するのが人の道ってことだが、都合でこのチャンスをものできなかった。残念。

次善の策として翌2日、夫婦50割引2000円と、仕事帰りの1号にもレイトショー1200円を奮発、3人で3200円という低コストで、出来たてほやほやの3億ドル作品を見たのである。このゴールデンウイーク、シャネルビルにも、贅を尽くしたミッドタウンにも出かけたが、3千円と引替えた3億ドルが最高の贅沢だったかも。

で、肝心の中味の方はと言えば、ゴブリンジュニアとの確執は一時棚上げ、友情は蘇ったが、叔父の仇の脱獄や仕事上のライバルの活躍など悩みは絶えない。その上いつの間にか、M・Jとも気持がすれ違ってしまい、こんな筈じゃなかった感に戸惑いと孤独感を深めるピーターの弱みに付け込むように、暗黒面の力を増幅させる寄生生物が忍び寄るのだった。という随分欲張りなストーリー展開。

超人的な能力を持つごく普通の平凡な青年、という矛盾したキャラクターにトビー・マクガイアがそれらしい魅力と説得力を与えて、スパイダーマンには他のアメコミのスーパーヒーロー達とはひと味違った、普通ぽい雰囲気が強い。キルスティン・ダンストの地味さ加減も、絶対悪というような単純な設定でなく、哀しくも人間的な動機が用意された悪役達にも普通っぽい。今回のサンドマン、役者が魅力的で大変によろしいのである。特にサンドマンは助演男優賞クラスの名演技。来年のオスカーには是非ノミネートしてあげたい。ゴブリンジュニアのジェームズ・フランコもいい。

ドラマ部分が重いのである。結構泣けるしっかりしたドラマ展開なのである。それをはねのけるように、スピード感と躍動感にあふれたスパイダーマンのアクションが炸裂して、ようやく種々の問題が解決される。観客の感覚も解放される。あーようやくスッとした。

しかし、最期の最期に、本当の解決に必要なのは力ではないよ、犠牲的精神と赦しなのだよという、ヒーローものにはあるまじき大胆な結論へと落とし込む。これはこれは、制作費世界1の名に恥じぬ風格の、何と堂々たる完結編であることか。

原題:Spider-Man 3
監督:サム・ライミ
原作・製作総指揮:スタン・リー
脚本:アルビン・サージェント
撮影:ビル・ポープ
出演:トビー・マグワイア、キルステン・ダンスト、ジェームズ・フランコ、トーマス・ヘイデン・チャーチ、トファー・グレイス、ブライス・ダラス・ハワード
2007年アメリカ映画/2時間20分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

異邦人たちのパリ 展


品川、銀座経由で地下鉄乃木坂駅。国立新美術館にやってきた。裏口からのアプローチのよう。モネ展とのセットなら200円安くなるらしいがやめとこう。GW も真っ盛りで女性トイレには列ができている。
今迄何度か来ようと思いながら、人出が凄そうだと先延ばしにして、結局最悪の時期に来てしまった。しかし、最悪はモネ展だったようで、会場は混雑という程のこともない環境だった。

藤田のお出迎えから定番のビッグネームが続いて、何というか、この安定感は何だって感じは建物の尊大な印象に影響されたせいかも知らん。

マン・レイをはじめとする写真家たちの作品が面白い。アンドレ・ブルトンのカラー写真を初めて見た。ブルトンは嫌いだが、ブルトンの「ナジャ」は大好きだ。あれは自分が読んだ恋愛小説のオールタイムベストだったてなことをチラッと思い出す。

会場を出たらさすがに疲れを実感したが、人が多くて休む場所も無い。それなら話題のミッドタウンまで行ってしまえと歩き出す。
ミッドタウンはもっと凄かった。連休中の人出は相当なものだろうが、これから先、どれくらいの賑わいを見せるだろうか。閑散としたイメージばかりが脳裏に浮かんだ。

2007/05/04

エリオット・アーウィット写真展

アーウィットの写真集「PERSONAL BEST」の中から、各界著名人にお気に入りのショットを選ばせ、それをベースに再構成したという、手の込んだというか贅沢な趣向の写真展。それでいて、誰が何を選んだかというような表示は一切排されている。写真家と観客への敬意と主催者の誇りが示された入場無料。

著名人を写した作品はどれも見事な瞬間と表情とが捉えられているが、展示された作品のほとんどは、市井の人々の日常的な時間と空間をスナップしたかと思わせるものだ。あきらかな「やらせ」と見えるものと、偶然にその瞬間をとらえた様に見える作品とがある。絵画的な計算や鋭い批評性に基づいた作品や作為が前面に出過ぎている作品も、実際はどうなのか知らないが、どの作品にも共通して、作為も偶然も超越した決定的瞬間というものが明らかに見て取れる。

犬のジャンプ、子供の眼差し、老人の横顔、何時、何処で、誰を撮っても、何を撮っても、そこには奇跡としか思えない瞬間が写り込んでいる。必要な時に必要な奇跡を演出して見せるエリオット・アーウィット。

シンプルで分かりやすく、ユーモラスで美しいが、しかし、どこか必ず、何?どうして、と思わせる謎めいた事物が入り込んでこちらの一方的な理解は拒まれてしまうのだ。何気ない写真に潜む大いなる力と、ミステリアスな魅力。

E・アーウィット公式サイト http://www.elliotterwitt.com/lang/ja/index.html

ヘンリー ダーガー展 「少女たちの戦いの物語—夢の楽園」


1892ー1973  4歳で母と、8歳で父親と死別。知的障害児の施設に移されるが16歳で脱走。その後は一生を通して皿洗い兼掃除人として働きながら、1973年81歳で孤独のうちに生涯を閉じる。死後、部屋からタイプライターで清書された1万5145ページの戦争物語『非現実の王国で』とそのために描かれた300余点の大判の挿絵が発見され、その生涯と独創的な作品が注目を集める。

公序良俗に反する、と言っていい。
雑誌から切り抜かれ、カーボン紙でトレースされた少女達。世界は完全武装の兵士達と少女達で成り立っている。超ワイドな縦横比の画面に、ロリの変態かと見紛うヤバさのまま、パノラミックに繰り広げられるイメージの数々。

自作の物語に即した挿絵は大がかりなきいちの塗り絵のよう。何年にも渡って描き連ねてきた作品は、様々なサイズの紙を張り合わせ、全て同じ大きさに統一されている。それだけでも異様だが、更に驚いたのは紙の裏表にびっしりと作品が描き込まれていたこと。

戦う少女たちのイメージもその技法も一つ一つは月並みだが、組み合わせ方によって他に例を見ない独創的な世界が生まれている。

世間との接触は必要最小限度にとどめ、自分の空間で妄想と幻視を極めた男。溢れるイメージを描き出すために、紙を集め、しかるべきサイズに張り合わせること。用意が整った紙面に少女達のイメージを存分に描き込んで行く時間が、どれ程の至福をもたらしたか。生前、膨大な作品を誰にも見せることの無かったという事実が、その至福の濃密さを何より雄弁に物語っている。

妄想と幻視を、作ること、描くことの純粋な喜びに昇華した男の一生。引きこもりの大いなる先達が愛して止まなかった少女達の戦いも、作者の死後 30年を経過した今現在、一層のリアリティーをもって展開されていることを思えば、彼は幻視者などではなく、筋金入りのアウトサイダーだったかと納得がいった。

原美術館 http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html  

2007/05/02

バベル

モロッコ、メキシコ、東京、4組の親子達。物理的な距離と心理的な距離とが反比例している。彼等が抱え込んだ現実の困難さと悲劇性が、時間と空間を自在に交錯させた技ありの脚本と力感溢れる演出とで精緻に織り上げられていく。

悲劇のきっかけとなるモロッコの、貧しい兄弟の暮らしの丹念な描写。彼等の放った銃弾の衝撃が、津波のように遠く離れた人々の暮らしを変えていく。生活感溢れる登場人物達の顔やロケーションの効果から、ドキュメンタリーのような迫真性が生まれている

前評判に違わぬ菊池凛子、聾者と設定されているわりにコミュニケーション不全は心理的な関係性の上にあり、ろう障害とは関係が無いのは意外だった。ろう即コミュニケーション困難な存在と誤解されることもありそうだがそれは違う。作品全体の中でも異質な雰囲気の日本パート。

時間と空間を錯綜させながらドラマを盛り上げて行く技術は全く大したものだ。編集は「トラフィック」でアカデミー賞を獲得したベテラン。技術の洗練は申し分ない。作品の完成度も素晴らしい。ブラッド・ピットが電話で子供とかわす会話の使い方の巧みなことなど、表現技術のレベルに感心するが、カタルシスに満たされることも、深く感動するということもない。

コミュニュケーション不全がテーマかと思わせるが、ここに描かれたのはむしろ貧困や経済格差を克服できない社会の問題だ。モロッコの親子もメキシコの親子も、彼等にはコミュニケーションより人並みの収入と暮らしが必要だ。それを保証できない政治的課題こそがより大きな問題だろう。そうした中、日本のエピソードだけがコミュニケーションの問題として描かれている。荒地での生活。砂漠での彷徨に対する東京砂漠の愛の不毛。

眼下に広がる光の砂漠に親子の再生を暗示するラストシーンは、この作品の数少ない救いの一つだ。しかし、モロッコの少年の悲劇もメキシコの母親の理不尽な現実にも、意義の申し立てのしようも無い。そうした現実を尻目に独走する勢いがこのラストシーンには無い。これが世界の現実と言われれば確かにそうなのだろう。だが、このメッセージの重さと技法の洗練がどうもうまく折り合わない。なんだか中途半端な気分でエンドロールを眺めた。

原題:Babel
監督・製作:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
製作:スティーブ・ゴリン、ジョン・キリク
脚本:ギジェルモ・アリアガ
撮影:ロドリゴ・プリエト
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子、アドリアナ・バラッサ、二階堂智、エル・ファニング
2006年アメリカ=メキシコ合作/2時間22分
配給:ギャガ・コミュニケーションズ