2010/02/11

3時10分、決断のとき


妻には苦労をかけるばかり子どもたちの期待にも応えられない不甲斐なさに為す術もないクリスチャン・ベールは、借金返済のために強盗団の首領ラッセル・クロウの護送任務に加わる。首領を奪回しようと待ち伏せる強盗団やアパッチの脅威に晒されながら、タイムリミットに向けて男たちの怒りが爆発する。エルモア・レナードの短編が原作で、50年代に映画化されている。どちらも未見。

昨年の公開だが製作は3年前。同じく昨年公開の「消されたヘッドライン」では体ブクブク顔パンパンの過度な肥満体だったラッセル・クロウも、この頃はまだ単に肥満傾向だったとよくわかる。この肥満が悪のカリスマ振りに程良く映えてメッチャクチャに格好いいのである。ラッセル・クロウ演ずる強盗団の首領は知性的で非情で愛嬌があって狂気に触れているという複雑なキャラクター。儲け役としか言いようがないくらいにこれをスケール大きく演じて滅法魅力的だ。対するクリスチャン・ベールはヘタレ感の漂う実直な家族持ちのカウボーイという地味な役どころを焦燥感滲ませながらしっかり見せてくれる。ラッセル・クロウ逮捕に執念を燃やす老探偵のピーター・フォンダの硬質なキャラもとても良い。ボス想いの強盗団NO.2の一途さも泣かせるだ。どのキャラもしっかり立っているからそれぞれの行動に納得でき、ゴールに向けて面白さが定位した。

男達の自立の物語であり子供の成長譚としても胸を打つお話になっている。ショボイ父親と輝かしいアウトローを見つめた子供の目線に立てば、あの「シェーン」アラン・ラッドに比肩するラッセル・クロウのガンファイトなのである。前作「ウォーク・ザ・ライン」も男臭さが匂い立つ良い作品だったがジェームズ・マンゴールド男を描いてとても良いのである。

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原題:3:10 to Yuma
監督:ジェームズ・マンゴールド
製作:キャシー・コンラッド
原作:エルモア・レナード
脚本:ハルステッド・ウェルズ、マイケル・ブランド、デレク・ハース
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:マルコ・ベルトラミ
製作国:2007年アメリカ映画
上映時間:2時間2分
ラッセル・クロウ、クリスチャン・ベール、ピーター・フォンダ、
グレッチェン・モル、ベン・フォスター、ダラス・ロバーツ、

2010/02/07

Dr.パルナサスの鏡


人の欲望を映し出す不思議な鏡が呼び物のパルナサス一座は貧しくも楽しい巡業の日々を送っていた。悪魔と取引した博士は目前に迫った返済期限にも為す術がない。このままでは悪魔の取り立てに屈し、最愛の娘を奪われてしまう。そんな時に転がり込んできた謎めいた男が、思いがけずに突破口を開いてくれる。

テリー・ギリアム一流のファンタジックな、というよりグロテスクな極彩色のイメージが次々と繰り出される中、貴族的な風貌と存在感が魅力のクリストファー・プラマーが狡猾でユーモラスなパルナサス博士を思い切った汚れ役で楽しそうに演じ、悪魔に狙われた娘リリー・コールが強烈なフェロモンを発散し、ヒース・レジャーが更なるいかがわしさを加えて、確かにこの猥雑さエロティシズムはギリアム印だ。しかし全体は案外上品で大人しくインパクトに欠けた。もし自分の欲望があの鏡に反映されたらと考る方がよほどのインパクトだが、それはともかく、クリストファー・プラマーと悪魔トム・ウェィツのやりとりには愛嬌があり、そこからはこれまでにない寂寥の気配が漂ってこれは悪くなかった。

ヒース・レジャーの死後、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの3人が演じ分けたパートは思いのほか長く、これでよく完成させられたものと感心したが、3人が入れ替わる設定によって一応の繋がりは見せているものの、やはり唐突さは免れない展開で、流れから見ていかにもすわりの悪さが気になった。これがヒース・レジャーだけで完成していたら、味わいは随分異なっていたのだろうと思った。興行的には女性客の動員につながったようで、客席ほとんどが女性で埋まった光景はテリー・ギリアムではない感じだった。

2010/02/06

インビクタス


反アパルトヘイトの活動家として30年近く獄につながれていたマンデラが、新大統領として官邸に入った朝、新政権の黒人職員達は士気高揚とし、旧政権を支えた白人職員達は馘首を覚悟し戦々恐々としている。職員を一同に集め、マンデラは色の違いを越えて国の為に働いて欲しいと説く。

アパルトヘイトから民主国家へと定めた進路が、新たな人種間の対立と憎悪を生み出しかねない困難な状況にネルソン・マンデラはどう向き合い、自らの国家観にしたがって、どのように国を導いていったか。護衛官達をはじめ側近やラグビーチームなど大統領を取り巻く人々との関係を通して洞察とコミュニケーションの能力に優れたマンデラの人となりを丹念に拾い上げ、状況の変化も鮮やかに、国をひとつにしようと苦慮する男の肖像が描きだされる。
マンデラの人間性をモーガン・フリーマンが余す所なく伝えてくれているようだ。出演者は皆自然なキャラクターを感じさせて素晴らしい。何より、大きな構えの内に繊細さと簡潔さで迫る映像。イーストウッドの語り口に同化する至福。

本でも映画でも、まあ娯楽作品においては、状況の打開や、問題解決のために最も多用される手段は暴力だ。正義が悪を叩き潰すカッコいいヒーロの姿に慣れ親しみ楽しんできた。これからもそうしたカッコ良さを楽しむだろう。クリント・イーストウッドもそのようなフィールドでキャリアを重ねてきたわけだが、グラン・トリノを越えて、このように問題解決を暴力に委ねない極めて稀な作品を放ってくるというのは凄いことだ。今まで見てきた誰にもまして、モーガン・フリーマンのマンデラはカッコいい。そのかっこよさに何故か泣けてしまい前半は殆ど泣きながら観ていた。映画で泣くことはあっても大概数秒で押さえ込めるのに、こんなにダラダラと泣かされ続けた映画は始めて。年取ったせいかも知れないが、マンデラのことも勉強する。

2010/02/04

ラブリーボーン


子供は親のことなど眼中にないが、親がどれ程子供のことを気にかけているものか。子に先立たれた親の痛ましい報道に接する度に、家族が抱え込まざるを得ない辛さ、察するには余りある絶望を思わずにはいられない。この映画は、変質者によって非業の死を遂げた少女を軸に、家族が負った傷の深さが描かれる。主演のシアーシャ・ローナンは人生の一定期間にだけ存在できる少女としてこの上ない美しさ。その妖精のような輝きが厄災の種となり、その魅力が映画全体を支えていく。死者が死者であることを宣言するオープニング。犯人は素知らぬ顔で隣人を装い、家族は断絶を深め、未練を残す少女は成仏できない。シリアル・キラーはのさばり続けル中、被害者家族だけが救われない。刑事も霊能者も出てくるのだから、通常なら犯人逮捕に向けサスペンスが高まって行くところだが、それらの要素を全て外されてゆく。警察も法も機能しない。家族も観客も救われないのである。設定はファンタジーだが、展開はまことに現実的だ。犯人逮捕のカタルシスでは解決できないのが家族の苦しさであり、家族であるからこそそれを越えることができるのだと再生への筋道が慰謝の願いと祈りをもって描かれている。ハリウッド・メジャーの配給でもこのニュージーランド製はカタルシスの方行が異なっていて味わい深い。天国の入り口は描かれるが天国そのものは描かれないのと同様に地獄は落下のイメージで暗示されるに留めている。最後の最後迄法律とか社会正義に頼らない価値観こそピーター・ジャクソンの想いだろう。

2010/02/03

「束芋」 断面の世代 横浜美術館


新聞小説の挿絵とアニメのインスタレーションで構成された展示。作者の関心はメタモルフォーゼにあるようで、体や内臓が様々に変容していくイメージが繰返される。これも身体性を意識する、あるいはこだわりか、バーチャル度を高めていく社会が強く意識されているようだが、批判的な視線は感じられない。20世紀前半ののアバンギャルドを思い起こさせるようなイメージもあるが作品には破壊的なところはなく、結構スマートかつクールな様子でまとまっている。何だかスルっとすり抜けていくようでどうも取っ掛かりが無いのだ。何と言うか、モツ煮込みのようなのだが、モツ本来の臭みや歯ごたえはなくて、モツが洗練された感覚でお洒落に料理されているような感じなのだった。熱いけれど冷静なのだ。

「内藤 礼」 展  神奈川県立近代美術館 鎌倉


鶴ヶ丘八幡宮境内の木立に建つ、直線で構成された美術館はいかにも近代というに相応しいモダンなシルエット。くたびれ具合も程よく、いつ来ても静謐な佇まいは魅力的だ。
その環境、建物の全体を大胆に使いながら、作家は繊細でしなやかな空間を創り出した。
都市の利便性がもたらす恩恵。しかし予定にしばられ、ネットに依存し、情報に振り回される毎日。管理体制は強まる一方で何もかもが複雑化、あるいはブラックボックス化するリアル社会にストレス募らせ、それだけに一層バーチャル化も加速する。次から次に生み出される様々な病理現象に到底対応仕切れない現代社会。そのような状況に人はどう対することが出来るか。内藤礼は展示ケースの中にギャラリーを招き入れて静寂を聞けと言い、闇の深さを思えと言う。空中に吊るしたリボンを揺らす風の恵みに感謝し、空の青さに畏敬の念をいだけと、あるいは、目を凝らせなければ見えないものを見ろと、そんな風には言っていないが、言っているように感じたのだった。アバターもサロゲートも内藤礼も言っていることは同じ、身体性の回復。五感を楽しませ想像力を羽ばたかせる。都市生活者は野生を忘れてはいけない。自然との回路はいつでも開かれているのだ。そうなのだ、チャンネルはオープンなのだと美術館を出れば、境内には真冬の風が吹き渡る。鎌倉時代にも吹いた冷たさだろうか。

「サロゲート」


自宅のコンソールからロボットを操作して全て処理させることが可能になった未来。システム上あり得ない殺人事件が発生。やがて世界を揺るがす大陰謀が浮かび上がる。「アバター」に次いで、高度に発展した在宅勤務のバリエーション展開という状況設定は一緒だ。まあ、こちらはロボットという違いはあるが、未来は何もしない安楽な生活が実現し人間性はスポイルされるだろう見通しはすっかり定着したようで、最近はこういう設定の話が増えてきた。「ウォーリー」とか。さて、そのブルース・ウィリスの分身ロボット、髪の毛フサフサ、シワ一つないツルンとした顔で捜査に当たるが、事態が込み入ってくるとやは生身じゃなけりゃ埒があかんとハゲでシワシワのポンコツ振りを晒しながら大活躍。低予算だがしっかり作ってあるし、短時間でコンパクトにまとまっているところも好ましいSFアクション。このB級感覚が楽しくて好きだな。

「母なる証明」


去年、評判が高かった韓国映画。劇場で見るのは諦めていたが小田原コロナにかかったので見に行く。
殺人容疑で逮捕された知恵遅れの息子と無実を信じて真犯人の究明に奔走する母親。冬枯れの野原に女が一人踊り始める奇妙なオープニングから、何だか目が離せなくなる。主人公の母親の生活感、存在感と力強い演出がうまく噛みあって画面には重量感がある。母親の思いが通じて無垢な息子の冤罪が晴らされるか、と思わせて意外性を高める後半のタフな展開も素晴らしい。この監督は過去に怪獣のジャンル映画と見せて凶暴なホームドラマにしてしまった「グエルム」という作品がある。あれに照らせばこれも母という名の怪物を描いたホームドラマと言える。単に「母」とシンプル極まる原題を「母なる証明」とした邦題は、曰くあり気でとても上手い。
ところで、「グエルム」も「母なる証明」も骨太でパワフルな面白さは分かるが、どうも魅力を感じない。この母親も印象的だが、顔の表情で見せる芝居は仲代達矢的な技巧が炸裂して好みではないし、息子のイノセントな様子もあざとく感じてしまう。この監督絵作りはセンスが良いし語り口も力強い。才気煥発で実力もあるが。だがここと言うところで作為、あざとさを感じてしまうことがしばしばで、どうも相性がよろしくないのをである。

「アバター」


09年の見納めだったアバターだが愚息1号と帰省中の2号を伴って東宝シネマズ小田原で再見。
前回の平塚シネプレックスに比べ、東宝シネマズ小田原の遥かに高解像な映像にビックリ。どちらもXpand方式なのだが、この違いは一体何だ!隅々まで入念に作りこまれたディティールがより鮮明に映っている。映像の素晴らしに改めて感動した。ところが、その後 『アバター』3D全方式完全制覇レビューhttp://itsa.blog.so-net.ne.jp/2010-01-15 というブログを読むに及んで、俄然IMAXが見たくなり、再度1号2号を道連れに、川崎のIMAXシアターへ。ウーン、スクリーンサイズ、光量、明度、彩度、音響、全然別ものなのだった。吹替版だったのも文字が無い分絵に集中できたので大正解。