2009/09/27

くもりときどきミートボール


空から雨のようにハンバーガーやホットケーキが降ってくる予告編には食指が動かなかったが、3Dとなればこれは抑えたいと思い、いつものシネコン、今年から3D映画が観れられるようになった「平塚シネプレックス8」に出かけた。

「キャプテンEO」から「ターミネーター」と3Dといえば長い間テーマパーク専用のイベントムービーの観があったが、ここに来て映画のデジタル化をきっかけに一挙に普及し始めた。昔の赤青メガネ時代を思えば今の3Dは明度も彩度も別次元の美しさ。見やすく鮮やかな画面に抜けの良い立体感は奥行きが深く、抜群の飛び出し効果も楽しめる。

センター・オブ・ジ・アース、モンスターとエイリアン、ボルト、それにIMAXの「ハリポタ3D」と観てきた印象から言えば、デジタルアニメは始めから空間設計が行き届くためか画面も良く整理され、時に、無駄の無い画面がのっぺりとした感じになることもあるが、立体感には優れているしとても見易い。しかし、立体感の刺激など見慣れてしまえばすぐ飽きられる。観客が集中力を映画1本分の時間維持するためには、魅力あるキャラクターと胸に迫るストーリーが用意されなければならない。その点でも「モンスターとエイリアン」「ボルト」の2作はどちらも洗練された技術で目一杯の面白さを追求した素晴らしい作品だった。当然今回も期待したいところだが、ピクサーでもなけりゃドリームワークスでもない。予告編からもあまり面白そうな感じが伝わってこなかった「くもりときどきミートボール」。

上映スケジュールも1日2回それも午前中だけ。興行側も全然期待していないのが良くわかる。そもそも、午前中から映画館に出かけるなんざ真っ当な大人のすることじゃない。ましてや平日の昼前からメガネをかけて3Dアニメを見る大人が何人もいるなんてことはハナっから思っていないが、それでもどれぐらいいるかと館内の照明が落ちる時に振り向いたら誰もいない。わを! さらに本編が始まって最初に映ったのが a film by a lot of people の1行。ハァー。

イワシ漁が地場産業の大西洋上の小島。「オイル・サーディン」の生産で栄華を極めたのも今は昔。イワシ缶の売れ行きが落ちて島はデトロイトのように寂れる一方。しかもイワシしか穫れないので島民はイワシしか食べる物がない。そんな現状をよそに、やることなすことなぜか周囲に迷惑がられてしまう発明家フリントが水を食べ物に変える革命的マシンを完成させる。しかし過大なパワーを得たマシンは空の彼方に飛び去ってしまうのだが、やがて曇り空からハンバーガーが降ってくる。フリントは一躍街の人気者となり島は奇跡の復活を遂げる。しかし、人々の要求はマシンの暴走を引き起こし空からの福音は厄災へと転じていく。

荒唐無稽、奇想天外を極めたような話だが、状況設定には現代の我々が直面した社会、経済、環境など問題などが巧みに取り込まれている。各キャラクターには暖かい血が通い、彼らが綾なすドラマは誰にも身に憶えのある関係や心情に支えられて共感度が高い。父との関係もぎこちない主人公はごく普通の青年だし、ヒーローとしてはめげないへこたれないポジティブさ以外の資質に恵まれている訳ではない。父子関係を軸にしたドラマの切なさも、それを笑いで中和させるさじ加減の良さによってより一層身に染みてくる。とある人物がつぶやく「大好きだよ」の一言には朝っぱらから3Dメガネをかけたオヤジの心がフルフルと震えてしまう。なんてこった。なのだ

そんな主人公たちと暴走マシンの攻防が派手なSFアクションとして展開する。人間が過度なシステム依存によって招来した危機というのは60年代から繰り返し描かれてきたテーマだが、これからも何度となく取り上げられることだろう。今回はロバート・ワイズの「スタート・レック」や「インディペンデンス・デイ」のパロディーともリスペクトとも言える「マシン」に、ファーストフードの脅威が組み込まれたりするなど、全編に渡って笑わせ方は気が利いているし伏線の回収は心憎いばかり。

スリル、サスペンス、ユーモアたっぷり。スパイシーだが決して斜に構えてはいない。ビューティフルでウエルメードなハートウォーミング作品なのである。フルフル。

原題:Cloudy with A Chance of Meatballs

監督・脚本:クリス・ミラー、フィル・ロード

2009年 アメリカ :1時間21分

2009/09/25

しんぼる


男が目覚めると、そこは真っ白な密室。壁には子供のちんちんの形をした突起物が無数にある。それに触れたとたん、ささやかな歓喜の声とともに壁から物が飛び出してくる。ひと触れに一つ、触れればその数だけ新たな物が表れ、ドンキホーテの店内のようになっていく部屋の中、やがて男は懸命の脱出を試みる。
一方、メキシコのとある田舎町では盛りの過ぎた覆面レスラーのエスカルゴマンとその家族が今後の経済的不安という厳しい問題に直面していた。という「シンボル」

密室とメキシコの話が何の脈絡も無いまま平行していく前半は辛抱キツい展開。松本人志は密室から脱出するために様々な手だてを講じるものの上手く行かない男を演じている。ナンセンスさに笑えるギャグもあるが、全体に小粒でテンポの悪さもあり、くすぐりといった程度で、言葉を封印しているのに松本のトークの面白さを越えることが無いのは喜劇映画としてどうなの、と思わせた。ところが、密室とエスカルゴマンがクロスしてからの展開から、これは松本人志の宗教観というか、神観を描いて喜劇的な場面はあるが決して喜劇映画としてジャンル分けされるようなものではないことが見えてくる。

神がいるのか、いないのか、それは分からないが、いるとすれば世界と神との関係はこんなことではないか。という松本の概念を、キリスト教的なシンボルを随所にちりばめながらシニカルに映像化したといえる「しんぼる」は、その毒も含めてほとんどプライベートフィルムと言うべき内容だから、幸福の科学のエル・カンターレほどの動員は見込めず、興行的には難しいだろうし、内容的にも評価され難いだろうが、アマチュアリズムを感じさせながらも、キューブリック並に大胆で刺激的な野心作ではある。

松本自身、eiga.comのインタビューに「本当はメル・ギブソンあたりに出てもらえればと思うんですけど(笑)」
http://eiga.com/movie/54524/special
と応えているが、このメル・ギブソンの名前は当然「パッション」を意識してのはずで、「パッション」のメル・ギブソンが、あの後目覚めたら、そこは壁にちんちんの形をした突起物が無数にある真っ白な密室だった。とすれば一層わかりやすい。

監督:松本人志
プロデューサー:岡本昭彦
脚本:松本人志、高須光聖
音楽:清水靖晃
2009年 上映時間:1時間33分

2009/09/23

火天の城


デジタルな画像処理技術の進歩で、どのような絵づくりも可能になった今、お城がどのように建築されたかというテーマはそれだけで充分魅力的だが、さらには織田信長の安土城でそれを見せようという企画は野心的でとても素晴らしい。完成間近の天守閣がそびえ立つポスターの絵柄からも、その意気込みが感じられるように思えて期待していた。

出資企業名に続き、聞いたことのない製作者の名前がバンとクレジットされたのでちょっと嫌な感じがしたが、椎名桔平の信長が宮大工西田敏行に築城の棟梁を指名しておきながら複数のコンペに変更させたり、当のコンペで西田敏行がみせるプレゼンなども楽しく、まあ面白く見始めた。

ところが、いざ城の建築が始まると、築城にかかわる技術的な課題や処理などのハード面はほとんど顧みられず、夫婦愛、親子愛、師弟関係、男女関係、階級問題などを切り貼りしたドラマが展開するばかり。それも真面目に生きる市井の人々を、ほとんどテレビのホームドラマ的な類型で、しかもより下手くそに描いているから始末に悪い。大竹しのぶの芝居の上手さや西田敏行の存在感がどれだけ作品の救いになっていることか。

築城にまつわる最大の難関はといえば、日本一の城を支えるための日本一の檜を敵地からどう手に入れるかというものであり、その解決策というのが、裏表無い態度で相手をひたすら拝み倒すという根性論だったのにも脱力する。例えば「プロジェクトX」が技術的な課題や興味を排して、全てが情緒と根性で描かれていたらどうか、ほとんど見るに耐えないだろう。

結局、安土城は定められた期間にめでたくその偉容を表すのだが、そこには虚仮の一念岩をも通し、全ての問題は誠意と努力で解決できるという時代錯誤がしっかりと刻み込まれていたという次第。デジタル処理も大したこと無く、、築城というようなテーマに相応しいインテリジェンスの微塵も感じられないのはどうにもしようがない。製作者が真っ先にクレジットされる映画は避けて通るべきとの思いを新たにした。


監督:田中光敏
製作総指揮:河端進
プロデューサー:進藤淳一、藤田重樹
脚本:横田与志
原作:山本兼一
撮影:浜田毅
音楽:岩代太郎
美術:西岡善信
編集:穂垣順之助
出演:西田敏行、福田沙紀、椎名桔平、西岡徳馬、渡辺いっけい、寺島進、山本太郎、石田卓也、河本準一、大竹しのぶ

カムイ外伝


「非人ゆえに忍者となり、忍者ゆえに抜忍となったカムイが、求める自由を手にする日は来るか」というナレーションから始まるカムイ外伝。
封建社会の階級制度の最下層に位置づけられた男の過酷な戦いを描いて60年代に大ヒットした社会派漫画をいま映画化するのは、格差社会と言われる昨今の社会状況に対するなにがしかの問題意識に依るものかと思わせるに足る山崎努の語り口。

それを受けるように、カムイは追手との暗闘に明け暮れ、領主佐藤浩市の狂気に振り回されるに側近達の無能振りなど描かれて行くのだが、だからといって特に社会派的なテーマ性が浮かび上がるわけでは無い。それから先は山から海へと舞台を移しながら、終始一貫理屈抜きの娯楽アクションに徹した作りになっている。

ワイアーアクションは変幻自在なニンジャにピッタリだし、昨今の時代劇ブームもCG抜きには考えられないわけだが、カムイ外伝はCGの使い方が日本映画にしてはちょっと変わっていて、荒れ狂う大波に翻弄される舟など、普通は見ることができないものを描く定番表現に加えて、穏やかで真っ青な海を行く舟という何でもない光景をはじめほとんどの海洋シーンにCGを用いている。これらのシーンは南洋の空気感あふれる気持ちさを醸し出してはいるのだが、やってもいないことをたっぷり見せているだけに粗も目立つのが痛し痒し。

さらに、CGによる派手な見せ場の隅々から、CGが可能にした表現が思い切り使え嬉しくてたまらん感と行った気配が伝わってくる。それも始めのうちはご愛嬌だが、多用しすぎには演出の志の低さが漂い出すというデメリットも。しかもクライマックスに向けて「ウオーター・ワールド」のケビン・コスナーとデニス・ホッパーの劣化コピーかと思わせる激闘の展開などもあり、終わってみればこれのどこがカムイ外伝なのか、なんでカムイ外伝なのかも良くわからないという、実にどうも、一体何を見せたかったのかがイマイチ中途半端で、いろいろ後味の悪さも残った。

カムイ外伝だからといって、白土三平原作的なテーマ性が必要ってことはないし徹底的な娯楽アクションで全然かまわない。要は面白いかどうかだが、絵づくりは脇に置くとして、宮藤官九郎にしては、随分細部に綻びが目立つ脚本なのである。脚本には崔洋一の名前もクレジットされているので、クドカンとも思えぬ整合の悪さや詰めの甘さの原因はおそらくその辺にかと思わず想像を逞しくした。

9.20

監督:崔洋一 製作:松本輝起 原作:白土三平
脚本:宮藤官九郎、崔洋一   撮影:江崎朋生、藤澤順一
美術:今村力 音楽:岩代太郎
出演:松山ケンイチ、小雪、大後寿々花、金井勇太、土屋アンナ、PANTA、芦名星、佐藤浩市、イーキン・チェン、伊藤英明、小林薫
2009年:2時間

2009/09/21

ジェーン・エア


幼くして孤児となったジェーン・エアは逆境を乗り越え聡明な女性へと成長し愛を貫く。

ステージ上に観客席を仮設した舞台は、後方に葉の落ちた木が1本立っているだけの極めてシンプルな作り。そこを街角に、荒野に、宏壮なカントリーハウスにと多様な空間に変化させる照明のニュアンスに富んだ色彩が美しい。大道具の自在な出し入れで屋敷内の空間が瞬時に作り出される快感など、洗練された演出のテクニックから繰り出されるビジュアルの充実が印象的。
旋律の美しい曲に松たか子の伸びやかな歌声が乗ってジェーンのキャラクターもクッキリと浮かび上がる。子供の頃のジェーンを始め、登場する子役達が皆達者なのにも驚いた。

がしかし、「ジェーン・エア」って「レベッカ」に似てたような感じと思っていたが、こんな平板な話だったっけ。エピソードには葛藤も苦悩も謎もあるのだが、物語の説明に終始するだけでドラマとしては盛り上がって行かない。うーん、出演者達はそれぞれが良くやっていてアンサンブルとしても魅力的なのに、脚本がハーレクインよりさらに甘いばかりのメロドラマなのである。

大甘のメロドラマのどこが悪いかって、別に悪いところなんかありゃしないのである。良くできたステージであるにもかかわらず、問題はそれを面白く感じないこちらの感覚なので、場違いなところに身を置いてしまった見識の無さや己の不明を恥じるのである。


9.19 12:00 日生劇場 2F F-11

出演:松 たか子 橋本さとし 幸田 浩子 寿 ひずる 旺 なつき
原作=シャーロット・ブロンテ

脚本・作詞・演出=ジョン・ケアード
作曲・作詞=ポール・ゴードン
翻訳:吉田美枝/訳詞:松田直行/音楽監督:山口也

編曲=ブラッド・ハーク、ラリー・ホックマン、スティーブ・タイラー

美術:松井るみ/照明:中川隆一/衣裳:前田文子
音響:湯浅典幸/
ヘアメイク:河村陽子/舞台監督:鈴木政憲 ほか

2009/09/05

九月大歌舞伎


久しぶりの昼夜通し。このところ遅寝早起きのが続いたので長丁場は体力的に不安だった。案の定、口開けの「竜馬が行く」からトロトロしていたが、いきなりグラッときたもんだで一気に目が覚めた。大した地震でなくても3階席は揺れが増幅されるようで迫力があるのである。

「昼の部」
「竜馬が行く」も3年目でとうとう最期の1日。潜伏中に発熱して暗殺されるだけの話でさっぱりしない。2年目が一番良くできて楽しかったかな。
「時今也桔梗旗揚」小田春永にトコトン虚仮にされた武智光秀の謀反。公演3日目、この時期には良くあることなのだろうが、台詞を忘れる場面が何度かあり、その都度舞台に緊張感が充満、物語とは関係なくハラハラさせられた。
「河内山」全然不良っぽくない河内山。本当に真面目な幸四郎
夜の部
「勧進帳」幸四郎、吉右衛門、染五郎の安定感
松竹梅湯島賭額 コメディー的な芝居にやたらテンション高くなる最近の福助

今月は演目が多めで昼の部と夜の部の入れ替えが20分ほどとせわしなかったりもしたが、体力、気力共に問題なく観劇できたのは嬉しい誤算だった。来月は蜷川演出の10時間通し「コースト・オブ・ユートピア」も控えているので体力向上、精力の増強に留意しなければ。

2009/09/03

メアリー・ブレア展


ウォルト・ディズニー自身が手がけたアニメーションはどれも素晴らしく、世代、時代を問わず世界中から支持されてきた。「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「バンビ」「ピニキオ」「ファンタジア」等々、傑作名作数多ある中、海賊と対決する少年のファンタジックな物語とウサギ穴に落ちてマッドな遍歴を重ねるハードボイルドな少女の話は、大人になっても男の妄想を刺激してやまぬ最重要作品なのである。この重文級の2作品に「カラースタイリスト」として関わったのがメアリー・ブレア。ということで作品展を観てきた。

1940年代から50年代のディズニースタジオでコンセプトアートを担当。退社後は商業デザインに転じ成功を収め、ディズニーランド建設に際して「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインを依頼されたという華々しいキャリアだが、女性の社会進出が一般的ではなかった時代、できる女性としての苦労は並大抵なものでは無かった。らしい。

気鋭の水彩画家として頭角を顕した初期の作品は動きを捉える鋭い写実が魅力だが、いかにもアカデミックなファインアート。ところがディズニースタジオでは一転して大胆な平面処理と抜群の配色センスが魅力のモダンデザイン。50年60年前とは思わせない鮮度を保っている。メアリー・ブレアの力は言うまでもないが、あの時代そのものが大したもんだったんだとも思う。

映画化されなかった「赤ちゃんバレー」のコンセプトアートが良くできていて、映画化されたのを観たかったと思うほどに印象的。映画化された仕事は「シンデレラ」「ピーターパン」「アリス」の三つ。この順番はメアリーの作品に対する関わり方の深さに比例していて「シンデレラ」との関係は極めて薄いが、「ピーターパン」では「夜」の描写や「ワンダーランド全景」など作品への関わり方を深めている。さらに「アリス」では、全編にわたってメアリーのアイディアとイメージがそのまま採用された事が良くわかる。
秘密めいて心ときめく夜、永遠の少年が導びくネバーランドの冒険と夜明けの切なさ。変なウサギを追って異形と狂気の面白世界を冒険する少女。大人になるほど味わい深いこの二作品の核心をメアリーがどれほど見事な色彩で形象化したか。完成された映画からは見えてこないが、物事を決定づける仕事を目の当たりにする醍醐味。

メアリーの公私を年代順に整理した展示は見やすく分かりやすい。「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインの過程も興味深い。こうした子供の幸せを基本に据えて仕事を続けたメアリーが、しかし最晩年にはそれまでとは似ても似つかぬ性的な作品を製作していたという大逆転。これにはたまげた。そんなに抑圧されていたのかという意外感もある。作家の軌跡、変容として受け止めるにも唐突で、どぎつい数点の作品は全体の中での落差も際立っている。最後の最後になって全体を別の色彩に染め上げてしまうまうどんでん返しのインパクト。この思いがけないエンディングは刺激的で興味深いのだが、夏休みにご家族向けの展示を観に来た小学生の男の子が猥雑な作品にしげしげと見入っている姿は決してメアリーが望んだことではないだろうし、少年の親御さんとて同じだろうと複雑な思いがした。