2006/05/21

「藤田嗣治展」

乳白色の肌にヘアラインの輪郭と微妙な陰影。繊細華麗な女性像。

フランスで成功し、アメリカを経由して帰国した藤田は、色彩とナショナリズムに目覚めたかのように、西欧の洗練から東洋の土着へと回帰する。

日本に帰った藤田のお気に入りは、生活感溢れる庶民の姿であり、パリで評判となったモチーフからは遠ざかっていく。

秋田の平野政吉美術館にある、秋田の四季と風物を描いた超大作は、モチーフ、テーマ、表現からもこの時期の集大成だろう。
日本を再発見した藤田は意気軒昂としてみえるが、幸せはつかの間。

藤田の生涯を、仏、日本、仏と三期に分けて構成した展示。
二期目に花開いた日本再発見。その締めくくりとして、漆黒の壁面に五点の戦争画が収められた展示室がある。

太平洋戦争に突入した日本。軍部は藤田に従軍画家としての仕事を用意し、藤田は日本人としての誇りと、画家としての名誉を賭け、それに誠実に応えていく。

五点の戦争画は、本来の藤田からは考えられない表現で描かれている。目的を最優先に、言ってみれば滅私を自覚した奉公という立場に貫かれた仕事。

西洋絵画の伝統と教養、技法がストレートに反映した風格ある画面。
藤田が積み上げた修業で獲得したものが何か、自在に駆使された筆から生み出された作品が、その到達点の高さを如実に示している。素晴らしい仕事だ。

藤田が、軍部の要請を受け、戦意の高揚や国威の発揚を意図したとは言え、この五点が、鬼畜米英的な発想から描かれていないのはよく分かる。卓越した描写の記録画ではあるが、中でも「サイパン」の悲劇と「ガダルカナル」の死闘を描いた作品は戦意高揚というより本質的に宗教画だ。

藤田が戦争画を通して描きたかったのは、人間の誇りと尊厳だろう。当時の人々にしたって、これらの画面から戦意を高揚されたり、鬼畜米英を鼓舞されたとは思えない。

この部屋の、というよりこの展示全体の圧巻が「アッツ島」だ。

暗い部屋、たった一人、この作品と対峙したらとしたらどうかと、想像する。慄然とし、粛然とし、しかし恐れおののいて逃げ出すしかないだろうと思う。

敵味方も無く、生死も定かではない人間が画面を埋め尽くしている。
画面左に配置された兵士は体が透けている。
右手には騙し画を思わせるような部分もある。
何がどう描かれているか判然としない。
判然としないがこの気配は一体何だろう。
藤田はこの作品を想像力だけで描いたのだと言う。
だからこそ可能だった仕事だったのかもしれない。

藤田がこの仕事をどのように成したか分からないが、その間、この世ならざるものと通じていたとしても不思議ではないと思わせる。
写真には全く写らないその神髄。
藤田の技術と精神の崇高さを証明する、まぎれも無い大傑作だと確信した。

結局、藤田にとっての国威発揚とは、日本人としての誇りを拠り所に、人間の尊厳を明らかにすることだったのだろう。日本の闘いとはそのようなものであると信じ、その記録に全身全霊を傾けた。誇りある人間の名誉をかけた仕事だったのだ。

しかし、戦後、藤田は戦犯として占領軍から戦争責任を追及される。最終的に無罪となるのだが、その過程で、戦争画を描いた画家達全ての責任を一人で背負うべしと、他の画家仲間から説得されるということがあったという。

己を捨て、祖国の名誉と誇りをかけて人間の尊厳を明らかにしようとした藤田に、そうした周囲の変化や、戦後明らかにされる日本軍の実態がどれほど精神的なダメージとなったかは想像に難くない。日本に裏切られたという藤田の痛切な言葉がそれを物語る。

第三期。展示順に、女神。イソップ物語の擬人化された動物。子供。黙示録を始めとする宗教画。聖堂の壁画。という構成になっている。特徴的なのは、成人男子が描かれていないことだ。唯一肖像画として展示された老人も手にカエルを乗せている。
皮肉なことに、藤田の傷の深さが、藤田の世界を一層深化させもいる。その一方で、藤田は少年の純粋さを生涯にわたって失うことがなかった。

戦後間もなく渡仏。
フランスに帰化し、キリスト教の洗礼を受け、レオナールと名乗り、小さな聖堂の完成をライフワークとした元日本人藤田の、これら一連の行動が、彼の献身に報いること無く放逐した日本の無惨さに追い打ちをかける。
昔も今も、そのような異議を真正面から受け止める大きさを我々日本の大人達は持ったことがあるのだろうか。
大きな大人になりたいなぁ。

「ダ・ヴィンチ・コード」

テンプル騎士団と聖杯伝説という骨格に、秘密結社の大陰謀と血の秘密という伝奇を肉付けし、アートにファッショナブルなデコレーションを施したって感じの作品。

最近なら「ナショナル・トレジャー」。ちょいと前なら「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」に「クリムゾン・リバー1・2」を加え、最後に「ローマの休日」をトッピングしましたって感じとも言える。

話の展開も演出もスピーディーなアクション・スリラー。最近はちょっとダレるとすぐ寝ちゃうことが多いのだが、そんなことも無く見ることができた。

本筋とは関係ないが、キリスト教の歴史を説明するために挿入されるいくつかの場面が世界史の理解に役立つ。SFXをフルに使った映像で構成されたビジュアルな世界史、てな感じで教科書などはDVD化されるのかも。

終わってみれば、レオナルドの「最後の晩餐」がらみで、何故、どうして?と思わせる疑問が次々と湧いてくる。どうもよく分からないことが多いが、あれも、これも、原作ではスッキリ説明されてるんだろうか。

天使のポール・ベタニー。最近では「ファイアー・ウォール」でハリソン・フォード相手にクールな悪党振りがなかなか良かったが、今回も大作の要となる悪党として大変結構な御点前だった。

それはさておき、カンヌ映画祭のオープニング上映後、作品の評価をめぐる報道の中で本編最大のサプライズがネタばれされた。
カンヌの記事を何気なく読んでいたら、いきなり仰天の事実を読まされビックリし、甚だしく興をそがれた。

アレを知らされずに見るのと、知らされて見るのじゃクライマックスのインパクトが違う。作り手の意図も、観客の楽しみも等しく尊重する立場というのが映画ジャーナリストの基本だろうに。

春樹訳 チャンドラー

チャンドラーの「ロング・グッドバイ」が村上春樹訳で来春出版予定だとのこと。
http://opendoors.asahi.com/asahido/boston/002.html

何てこった。 夢想が実現するなんて。

感想> 海辺のカフカ 上・下 村上春樹

少年は世界で一番タフな15歳になろうと思う。猫語を話す独居老人は覚醒する。ドラゴンズファンが海を渡る。全ての道は四国へ。断ちがたい欲望と目に見えぬ悪意。失われた時間は失われたまま、ジョニー・ウォーカーの野望とカーネル・サンダースの思惑が交差する時、秘密の回路が開きはじめる。メタファーに充ちた世界の冒険のメタファー「海辺のカフカ」。

村上春樹は面白い。大概において刺激的だし感動的だ。優しい気持ちにさせてくれるし、静かに力づけてもくれる。ここ数年は、インタビュー、ルポルタージュ、短編集などが相次ぎ、自分などは以前のような村上春樹的世界への欲求が高まっていただけに、「海辺のカフカ」の濃厚な村上テイストには、ある種の懐かしさをおぼえながらすっかり引き込まれてしまった。

懐かしさとは、登場人物達が忘れ物を探し出そうと過去に捕らわれ続けているからであり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出させるからでもあり、そんな風に、物語は一見過去に向かっているようだがそうでは無い。未来のために過去を清算しようとする登場人物達にも懐かしさは漂っている。

絶妙な語り口でスリリングに展開される物語には、生と性、死と暴力が深く立ちこめているし、緻密な構成、洒落た設定、不思議な人物達に気の効いた台詞、スノビズムもペダンティズムも健在。過去の村上作品を集大成するモチーフも網羅されている。

そうした春樹的特徴を十二分に備えながら、しかし、世界への違和感や、居場所の無さに途方にくれるしかなかった過去の登場人物達とは明らかに一線を画した「海辺のカフカ」の登場人物達。感情は押さえられる一方で軽妙さが増している。より平易な言葉によってやさしく分りやすくなった表現に、人を喰ったような大胆さと、心の底の微かな思いに柔らかな光を当てる繊細さとが鮮やかに立ち上がる。

「風の歌を聴け」からこのかた、村上春樹が何を受け取り、何を育んできたきたか。オームと阪神淡路の震災を抱え込んだ挙げ句の、到達点とも新たな出発点とも言えそうな「海辺のカフカ」の、これまでに無い強さと美しさ。全ての面で、新作は洗練の度を深めて素晴らしい。

世界一タフな15歳を目指した少年はどうなったか。何と何と、優しくなれなければ生きていかれぬと思い定め、足取りも確かな一歩を踏み出すのだ。訳書も多い村上の、次はサリンジャーだそうで、これはナイスなキャスティングだが、村上春樹はどうしてチャンドラーに手をつけないかと、思わず夢想するのだった。
                         02.09.26

発行 新潮社 2002.9.10 価格 各1600円+税

「あなたに不利な証拠として」

ネットに書評子絶賛の声がこだましてたもんで、早速本屋に行ったが現物は無い。無いとなれば余計欲しくなるわけで、更に探索区域を広げたが、何処にも見当たらない。四国からの帰路、岡山の大書店、小書店などにも足を運んではみたが無駄骨。

大体、ポケミスよりポケミス置いある本屋の方が珍しい、てな状況が珍しくないという状況もある。探し疲れてというより諦めてアマゾンに頼んだのが3月初めのこと。本が届いたのは4月に入ってからで、ん、4版? 印刷ちゅうだったの?どうりで探しても無いわけだ。その後は安定的に供給されているようで、ポケミスの大量平積みなんぞの珍しい光景にも接し、今や供給過剰が心配される。

ルイジアナの州都バトンルージュの市警に勤務する制服警官の視点から、警察の日常業務が描かれている。その精緻で豊かさのある描写から生まれる臨場感、並々ならぬリアリティーはちょっと比類がない。

さらに、5人の女性警察官達をロンド形式で追う連作短編は、どれもタフでデリケートで誠実な世界を構築している。
生きるという事の何たるかを、生きる事を通して伝えようとする。
日常と非日常の接する時間、生と死が交錯する空間を仕事場に選んだ5人。彼女等女性警官の心の軌跡、生の記録が全10編。
どの作品をとっても、ニュアンスに富み、香気溢れた文章が、切実さと意外性とで生きることの不思議を伝えてくれる。

導入展開で作品世界に絡めとり、後半のキャシーでブースターに点火、ロケットは更に上昇。そして5人目のサラを難儀の末に周回軌道に乗せ、未来を託すという構成も素晴らしい。
MWA最優秀短編賞の受賞作を含む警察小説であるから、ポケミスでのラインナップは当然といえば当然だが、読後感から言えばポケミスより新潮クレストブックなのだった。

「メタル・マクベス」

西暦2206年。あまた列強が激突を繰り返す争乱の世。レスポール王率いるESP王国は着実に領地を拡大しつつあった。ESP王国の将軍ランダムスターは戦功著しく出世街道を驀進中。そんなある日、凱旋の途にあったランダムスターに、3人の魔女が不吉な未来を予言する。予言の全てが収められたという銀色の円盤を手に入れたランダムスター。それは1980年代のロックブームに生まれたヘビメタバンド「メタルマクベス」のデビューにしてラストアルバムなのだった。

「北斗の拳」とか「マッド・マックス サンダードーム」な世界に、人名、国名をフェンダー、ギブソン、レスポール、ヤマハなどの名に変えて、クドカンが語る「マクベス」はメタルなロックミュージカル。

マクベス=ランダムスターの内野聖陽のボーカルは、高音の伸びと切れがよく、声量の豊かさも気持ちいい。夫人を演じる松たか子も、歌の上手さは折り紙付き。ふとした所作の切れ味や、決めのポーズの華麗さ鮮やかさに天与の才が滲み出る。
レスポール王=上条恒彦の息子を演じた森山未来は、タップダンスに演歌独唱と見せ場もたっぷりだが、上手い下手以前に、体を張った努力でそれに応えようとする必死な気持ちが直に伝わって、はっきり言って下手だが好感度大。

重い質感の装置や、不安定感を生む舞台の傾斜も効果的。衣装デザインもナイス。ロックコンサートなライティングと大音量のヘビメタサウンドの迫力に、歌詞のトホホ感ががさらに盛り上がる楽しさ。観客を思いっきり楽しませようとする意図に貫かれたステージは疾走感を維持したまま、20分の幕間を挟んで4時間続いた。これを毎日、日によっては2回やろうてんだから役者稼業も大変だと、改めて思う。

それはそれとして、設定、見せ方には工夫もあり、クスグリのネタも面白いが、「メタル マクベス」という、想像力を刺激するカコいいタイトルの割には、シェークスピアの忠実なトレースに過ぎるような気がする。「メタル」が音楽以外の、キャラやドラマ展開にどんな位置を占めているのかがよくわからない。劇中、「メタル」に馬鹿にされ、利用される「パンク」が出て来て笑わせたが、いまにして思えば、もっとパンクな「マクベス」を、自分は期待していたのかなってこと。

橋本じゅんがコリン・ファレルに似てるのが気になった。

5月5日 松本

5日朝、家を出て湘南新宿ライン乗車。友人と合流。新宿乗換、スーパーあずさで松本。昼過ぎ到着。
駅の観光案内所推薦の信州そばの名店に向かうが、時すでに遅く、長い行列。方針変更、空いてるそば屋に入る。食後市内散策。古本屋多し。服の直し屋さんも。洗練された構えの店が目立つ。文化的歴史、成熟を感じさせる。城下町特有の落ち着き、気品が漂っている。信州大学の存在も大きいのだろう。官も民も一体で街を盛り上げようとしている感じがいい。

適当に切り上げ、浅間温泉に投宿。一息ついて後、再度市中に出かけ、市内観光を続ける。

松本市美術館。「海洋堂の軌跡展」開催中。ズーッと全国巡回してるのね。
海洋堂のおまけは沢山持ってる。まさかこんなところで遭遇しようとは、これも何かの縁と1000円払ったらクジ付き。引いたらスカ。何もくれない。オマケ無しかよ!
なんだか釈然としないまま見学。造形師のプロフィール紹介など面白かったが、どうもさっぱりしない。満たされない気持ちのまま、常設の部屋に上がれば、をを、草間弥生さんだ。

この展示が良かった。1950年代の若い頃の作品の、生身の危うさ。デリケートでニュアンスに富んだ表現。ドットがポジなら網目はネガ、と様式化される以前、不安感や切実さを定着させてる色の美しさ。思いがけない面白さにすっかり満足。2002年に行われた草間弥生展の図版を買う。この美術館、作り雰囲気共、かなり良い感じ。

5:30 まつもと市民芸術館 新感線「メタル マクベス」 
友人がチケットも宿も手配してくれるというので全部お任せでやって来た。脚本家宮藤官九郎のファンとしては、新感線用にマクベスをどう料理するか興味津々。期待も大。
若い女性が本当に多い場内、新感線の動員力もさることながら、この手のことに発揮される女性のエネルギーの大きさに感心させられる。席は16列目の中央。役者を真近に観たい場合は不満が残るかもしれないが、ステージ全体が無理無く視界に収まる。絶好のポジション。

箱根は朝

GWはじめの日曜日。朝6時半に家を出て箱根に向かう。
朝から西湘バイパスは伊豆箱根方面に向かう車が多いが、小田原経由国道1号に降りてからも流れは申し分無い。

湯本の温泉街を過ぎれば山の緑がぐんと迫ってくる。朝の光にきらめく新緑のトンネル。先行車も後続車も充分な車間距離を保ったまま、大平台から宮の下へと快適に走り抜ける。

宮の下には、古くはチャップリン、近くはジョン・レノンが泊まったホテルの、道路を挟んだ向かい側に町営の温泉がある。ここはアヂアヂだがきめ細かな源泉がゴボゴボとふんだんに溢れかえる掛け値無しの掛け流し。抜群眺望、豊富湯量、格安料金の名湯がある。以前はよく通ったが、開業時間が7時から9時に変ってからは足が遠のいた。

名湯の目印を横目に、宮の下のT字路直進し仙石原に向かう。宮城野あたりまで上がってくると、緑も新緑というより、未だプヨプヨとした新芽で、その頼り無い感じがいい。盛期は過ぎたとはいえ、遠くの山肌に点在する山桜の淡い色合いも堪らない。
道路も独占状態で、時折対向車がすれ違うだけ。うぐいすも驚く程近くで鳴いている。新緑の箱根路を堪能しつつ、仙石原の温泉についたのが午前7時を回った頃。道が空いていれば本当に近いのだ。

小さな旅館の立ち寄り湯。初めて利用する。こんな時間から大丈夫。料金1000円也。早速入湯。先行者2名に朝のご挨拶。光が差し込む浴場の湯船に浸かる。年寄り臭くて嫌なんだが、声にならない声がどうも出てしまうなぁ。白濁した湯はきちんとした熱さと柔らかい肌触り。配偶者に聞けば、女湯は庭園に面して広々としていたそうだ。この日は女性の泊まり客が多くいため、小さい方を男湯専門にしたらしい。湯質も環境も申し分無い。また来よう。

帰路は仙石から芦ノ湖を通り、旧道をくだることにした。まだ8時台、車もそれほど増えていない。快適に走り続ける。

50になったらオープンカーを買いたいと思っていた。50を過ぎてオープンカーを買った。スバルのビビオTトップという名の愛車は、発売当初某自動車評論家が平成の珍車と評したという4人乗り軽自動車。トップは3分割、リアウインドは電動で昇降するという優れもの。

数年前に中古をネットで購入した。早く乗りたくて新潟の中古車ディーラーまで引き取りに行ったものの、帰りの高速でエンジンが逝ってしまったという曰く付きの車だが、分相応な感じで気に入っている。湯上がり、新緑、山桜、芦ノ湖、空いた道、好天。久しぶりに屋根を取っ払って走った。

竜宮殿から湖畔沿いを抜け、途中ツツジで有名なホテルで湖上を走る海賊船を眺めながら朝食。スクランブルドエッグは自分の方が美味く作れる。ツツジが満開になる前の庭園を散策後、ショップをのぞいてから帰る。

旧道は眺めがまた格別。熟年ハイカーの姿も多く、サイクリストも頑張っている。畑宿を過ぎると対向車が増えて来た。そろそろ上りが込み始めてくる頃。三枚橋から一国に出れば上りは数珠つなぎののろのろ状態。休日の箱根は朝に限るのだ。帰着11時。

その後洗濯干したり新聞読んだり少しばかり片付けて、昼飯食べたら眠くなってついうとうと。朝湯もいいが、体力無いもんで、結局その後使いものになんなくなってしまう。

「最澄と天台の国宝展」

http://event.yomiuri.co.jp/2006/tendai/
バルラハを西洋美術館のロダンとカリエール展で相対化という手もあるが、バルラハには仏像彫刻の影響も強く感じられたので国立博物館の天台の国宝展にいくことにした。
去年の鑑真展以来の国博。鑑真程ではないが、それでも天台のお経、仏像、絵、曼荼羅等々、それも国宝、重文がざ〜くざ〜くざっくざくのありがたい展示なのだ。上出来の観客動員。

展示品の性格上、博物館といえども、参観者は宗教空間として対応すべきだろうが、それはなかなか難しい。どんなお宝でもひとたびお寺を離れてしまえば、宗教性も弱められてしまう。博物館で観る仏さんには、どうしても晒しもの感が消えない。

そんな状況にもまるで影響されず超然とされている強い仏さんもいるが、中には弱い仏さんだっている。物悲しそうな雰囲気で所在なさそうな佇まいの仏さんをお見受けすることもままある。そんな時こっちも見てはいけないものを見てしまったようなきまり悪さを憶えたりして、それやこれやで、結構気疲れしたりする。そんな目でみても、こんな時こそ一層生き生きして見えるのが神将足下の餓鬼等なのは確かだ。自分のような偽善者にはワルってどうしても魅力的なのね。

アートとして眺める面白さも、千手観音の腕の付け根を真近に眺められる楽しさも、こうした機会ならではだが、手間ひまかけてオリジナルな空間で見るのが基本だなどと、今更当たり前のことを思ってしまうのは、老老男女ひしめく会場の混雑に圧倒されるから。

エルンスト・バルラハ展

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/current_exhibitions_ja.htm
ドイツ表現主義ならカンディンスキー、ノルデ、シーレ、ココシュカぐらいは知っているが、エルンスト・バルラハってのは知らなかった。なんでも、20世紀ドイツを代表する彫刻家・版画家・劇作家であるらしいが、日本ではこれが初の回顧展だということで、知らなくてあたりまえなのだった。

修行時代の前半は素描と陶製のレリーフ、後半が彫刻と版画で構成された展示。回顧はコンパクトで、体力、気力的に丁度良かった。

絵が巧い。達者な線で批評性の高い表現。ロートレック的な辛辣さや都会的な洗練も漂わせている素描やデッサン。何を描いても様になっている。何でもできるからいろいろなことをやっている。

そんな修業時代を経て、生涯のテーマに目覚め、内省を深めていく中期以降には、巧さも都会的洗練も影を潜めて行く。人の形は量塊として捉えられ、骨太で逞しいフォルムに統一されていく。より深い静謐や静寂が、激しいエネルギーの発露が、単純化された形から放射されてくる後半の展示作品が素晴らしい。

単純な形象でメッセージ性も物語性も豊かな作品は、直にこちらの琴線に触れてくる。そこに、晩年はナチスの迫害により、不遇と失意のうちに世を去ったことが明示されて、出口に向かう時には、入る時には思っても見なかった気分で、バルラハの精神と作品の意味が一層重く感じられた。

「 サウンド・オブ・サンダー」

レイ・ブラッドベリ、ピーター・ハイアムズ、シド・ミードと並べば、SF好きならそりゃ見に行くでしょう。でも、見終わって納得満足するSF好きも少なかろう。バカSFもここまでバカだと、バカって言う方がばかなんだもーん。とか言われちゃいそうだし。
 
ブラッドベリを熱心に読んだのはかれこれ30年以上昔、原作の短編は読んだはずだが憶えていない。原作に忠実な映画化とうたわれているが、こんなギスギスしてお馬鹿な雰囲気にベラッドベリらしさはまるで感じられなかった。

タイムトラベルものとデザスター・ムービーをくっつけ、鬼面人を驚かす強引な趣向で観客を喜ばそうという魂胆のようだが、何というか、脚本が酷すぎたなぁ。主演のエドワード・バーンズはかすれ気味の声がセクシーで、なかなか魅力的。

「ミュンヘン」・「イーオン・フラックス」

「ミュンヘン」
素晴らしい。
緊迫感溢れたアクションスリラーであり、現代史の一断面を切り取ったドキュメントであり、優れた人間ドラマであるという充実した一編。ハッタンを遠望するラストシーンは、スピールバーグの苦渋に満ちた問いかけが結晶した名シーン。アカデミー作品賞取れなかったのは残念。
宇宙戦争とミュンヘンの2本を製作公開してしまう、この1年間のスピルバークは、まさに男盛りの脂の乗り切った仕事ぶりだ。

「イーオン・フラックス」
製作にMTVが一枚噛んでると思ったらMTVのアニメの映画化だそうだ。道理でマンガみたいなお話。シャーリーズ・セロンがブラックタイツでスパイダーマンみたいなアクションを見せてくれる。超管理社会の反逆者を描いたお話は特にどってことないが、ビジュアルとアクションは適度にSFで結構カッコいい。「トゥーム・レイダー」のアンジェリーナ・ジョリーのフェロモン過多に比べると、シャーリーズ・セロンはスマートで決めのポーズが美しい。アカデミー賞女優となってもサーヴィスショットを忘れないプロ意識もポイント高し。

「RIZE」
ロスで最も怖いエリア、サウス・セントラル。暴力と抗争が日常の若者たちから発生他したダンス・ムーブメント。超絶的グラインドで技を競い合うダンスバトルと共に紹介したドキュメント。何の予備知識も無く見始めたが、疲れの溜まった週末、ひと風呂浴びた後のレイトショー。直に眠くなって来た。ダンスというより痙攣と言いたいダンスシーンの迫力と、アメリカンドリームを熱く語る彼らの生活と意見はそれなりに興味深いが、睡魔も強烈。映画見ながら寝るのは気持ちがいいが、気がつけば、明るくなった客席には誰もいない。間抜けだ。こんなことは初めて。年取ったなぁ。

「スピリット」
ラバーズ、ヒーロー、プロミス、ときて今度は「スピリット」だと、中国映画に英語の題ってとっても気持ち悪い。配給会社も悪趣味が過ぎる。ましてや作品が優れていたらなおさらに。
という訳で、ジェット・リーの作品をそう沢山見ている訳ではないのだが、この作品のジェット・リーは今迄で一番カッコいい。香港映画のテイストを残しながら、見せ方作り方はきっちりと隙が無い。ジェット・リーが再生のきっかけをつかむ農村の美しい棚田の風景はこの作品一番の見所だろう。醜い日本人を演じる原田真人がラストサムライ以来の快演で中村獅童をきっちり引き立てるいい仕事ぶり。