2009/02/22

ベンジャミン・バトン 数奇な人生


今年のアカデミー賞の主要部門は「ダークナイト」が独占するはず、して欲しいと思っていたので、ノミネートがヒース・レジャーだけだったことには大いに落胆したわけです。結局、やり場の無くなったダークナイトへの思い入れをそのままに賞レースへの興味もすっかり無くしてしまいました。しかし、あの傑作を蹴散らし、13部門でノミネートされた「ベンジャミン・バトン」てのは、一体どれほどの作品なのかは、やはり発表の前に観ておきたいと思いました。ダークナイトファンの心理として、つまんなかったらただぁおかねえかんな、ぐらいのダークな気分で出かけた平塚シネプレックス8。ちょっと小さめの2番スクリーンS−8の席に座りました。

新生児の醜悪さに戦慄した父親が、発作的に子捨てに走る陰鬱な幕開け。80歳で生まれ、歳ごとに若返る男の一生の始まりです。原作はフィッツジェラルドの短編とのことですが、フィッツジェラルドというより、むしろスティーヴン・キングの名が似合いそうな奇想ではありませんか。

巨大なハリケーンが接近中の病院を舞台に回想されるベンジャミンバトンの数奇な人生。風変わりな人々と様々な出来事。現在と過去を巧妙に行き来しながら、若返りながら死に向かうという男の一生が語られます。これはアメリカ人好みの法螺話にジャンル分けできるような、あり得ない男の話ではありますけれど、このあり得ない一人の男を物語に加えることによって、デビッド・フィンチャーは、私たちが営んでいる普通の暮らし、それを続けている事が、実はどれほど貴重でかけがえの無いものであるか、どれほどの幸福に恵まれていることである事かを、まるで手品のように、驚くほどの鮮かさで浮かび上がらせました。

ファンタジーとリアルがシームレスに構築された世界に、切なく哀しく時に痛ましいエピソードが静かに積み上げられて行きます。ユーモアを滲ませながら幾つもの美しいシーンによって織り上げられた物語は寓意に満ち、人とは逆方向に生きざるを得なかった特別な男の話だったはずが、やがて私自身の内側に寄り添うように立ち上がってくるような、そしてそのまま静かに作品の世界に受け入れられたような感動を覚えました。

脚本のエリック・ロスはフォレスト・ガンプを書いたその人であり、ハチドリのシンボリックな使い方などガンプの羽を思わせるところを始め、確かに「フォレスト・ガンプ」を彷彿とさせるところも少なくありませんが、ベンジャミン・バトンはラブ・ストーリーとしての完成度も高く、作品としては一層深みを増しています。

デビッド・フィンチャーにしては従来にない静かなドラマで、まず悪人は一人も出てきませんでしたし、人の悪意も全く描かれていません。にもかかわらず、病院を舞台にしているせいもあり、老いを扱っていることもあり、背後に控えたハリケーンの影もあり、結局全編に渡ってそこはかとなく暴力と死の気配が漂っているのは、やはりデビッド・フィンチャーならではなのかなと面白く感じました。

さらに感じ入ったのは、性の衝動、性の欲望をしっかり描いていることです。特に、若返ってゆく夫のベッドから出ていくシーンに漂う哀
しみには心うたれました。ケイト・ブランシェットはラブシーンの官能的な美しさにもほれぼれとしてしまいますが、どの場面をとっても完璧な美しさです。

逆行する老い描き、往時の風景を再現するにはCGとマットペイントの高度な技術無くしては不可能ですが、老いた少年という難しい表現も自然で違和感がありません。入念に時代考証された町並みや街路風景にアメリカの現代史をなぞるような男の一生が展開する。制作のフランク・マーシャルとキャスリーン・ケネディ、これまでの作品同様、時代の再現性は今回も完璧でした。

90分でも長いと感じさせる作品も少なくない中、2時間50分は1本の映画にしては長いです。しかしこの男は2時間50分の一生を、なんとイマジネーション豊かに駆け抜けたことか。ダークナイトも傑作でしたが、ベンジャミンもまた紛れもない優れた作品としての輝きに溢れています。賞レースでは是非主要タイトルを独占して欲しいと思いました。

原題:The Curious Case of Benjamin Button
監督:デビッド・フィンチャー
製作:フランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ、シーン・チャフィン
脚本:エリック・ロス
原作:F・スコット・フィッツジェラルド
撮影:クラウディオ・ミランダ
美術:ドナルド・グレイアム・バート
衣装:ジャクリーン・ウエスト
音楽:アレクサンドル・デスプラ
編集:カーク・バクスター、アンガス・ウォール
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、タラジ・P・ヘンソン、ジュリア・オーモンド、ジェイソン・フレミング、イライアス・コーティーズ、ティルダ・スウィントン、ジャレッド・ハリス、エル・ファニング、マハーシャラルハズバズ・アリ
2008年アメリカ映画
2時間47分
ワーナー・ブラザース映画