2007/07/24

NINAGAWA十二夜

蜷川演出で菊之助がシェイクスピアを歌舞伎化した舞台の再演。
歌舞伎は先月のコクーン歌舞伎が初体験。歌舞伎座はこれが初体験。いうなれば基本を飛ばして応用ばかリに走ったような落ち着かなさもあるが、いろはの勉強は今後の課題ということにする。

普通の劇場のステージをビスタビジョンとするなら、歌舞伎座はシネマスコープ。この横幅の広さから花道という縦空間の必然も生まれたように見える。

舞台全面に鏡を貼り巡らしたセットに度肝を抜かれ、満開のグラマラスな桜の巨木から海上の嵐に翻弄される船と菊之助の早変わりの一大スペクタクルへと畳み掛ける見せ場の鮮やかさにすっかり乗せられ、ひき込まれ、全身委ねて終演までいってしまった。

訳あって男に成り澄ましたうら若き乙女に恋したやんごとなき姫君の恋のもつれを描いたコメディー。歌舞伎でということは、女形が男装の麗人を演ずるという、これは、文化的芸術的洗練の極みと言いたい相当高級な設定。この倒錯、錯綜振りは考えるほどにこちらの頭もクラクラしてくる。
そんなことはともかく、女形と女形の男装の麗人と男を演じ分け、菊之助はあくまで可憐で美しい。時蔵の姫君も姫君としか言いようがない。このお姫様系に対し、亀治郎の、伝法で徒な、小股の切れ上がった姐御な魅力は好対照。

演者も観客も一体になった明るく楽しいステージ。喜劇的な演技、様式でいえば吉本新喜劇も同様だが、様式の洗練と美しさに歌舞伎の凄さを認識した。